ふりにじ。

フリーランス2児の母が、編集ライターをしながら考えたり試したりするブログ

ホテルニューオータニの一時預かりを使ってみた。(ジロー0歳5カ月)

(ジローが保育園に入る前、一時保育でしのいでいたときの話)

こないだどうしても託児の都合がつかなくて、最終手段でホテルニューオータニのベビールームを利用。たくさん遊んでもらって大変キゲンよく過ごしたようで、お迎えいったらベビーコットでぐーぐー寝てた……家でもベッドで寝てくれよ(白目)。

www.newotani.co.jp

事前に会員になっておくと1000円引き。

予約時に授乳室の有無を聞いたところ、ホテル本体に聞いてくれといわれて問い合わせたら、当日フロントに申し出てくれと。で、フロントに寄ったら、授乳室として普通にホテルの一室をかしてくれた! さすがー!

広いお庭を臨む部屋をゆうゆう使えて、ああたった30分ではなくこのままここに泊まりたい……と思ったのでした。フロントにカギを返してベビールームへ行くと、客室フロアのちょっと奥まったところに本当にひっそりと、客室よりも質素なドアに小さく看板が。こちらの顔が見えるインターホンを完備。

わたしの予約時間は平日のちょうどお昼の2時間で、ほかの子はおらず、やさしそうな保育士さんが一人で出迎えてくれた。室内は思ったよりかなりコンパクトだったけど、受付スペースとの仕切りにベビーゲートがあって、保育スペースにはおもちゃやベビーラック。ほっとする配色。

ちなみにニューオータニレディースっていうのに入っておくと1000円引きになるので入っておくとよいよ。(ちなみに男性向けのクラブは役職者限定でした白目)

www1.newotani.co.jp

申し送りメモが敬語! セレブデビューのジローw

無事仕事を終え、でもまあランチするほどの余裕はなく、小走りでお迎えに。あ、赤坂見附方面のタワー棟から行くとけっこう遠いですよ;。

託児中の申し送りメモには「抱っこをすると壁の動物の絵を熱心にご覧になり……」と。ご覧になり! さすがw! はあ、奇しくも当日はダイニングでイチゴのスイーツ満載のビュッフェが催されていましたが、生暖かい目で見ながら8kgを抱えて帰途についたのでした。

その日もファミサポさんはたぶん使えただろうけど、1月に頼んだときはどうも自宅の環境で「ママじゃない!」というのが気に入らなかったのか、2時間泣いたと言われ……使うのをひるんだ。あとたしかベビールームは帝国ホテルにもあったよね。高いけどほぼ空いてるので緊急の選択肢に。

都内ホテルほか、いざというときに。

都内ホテル、ちょいちょいある。品川プリンスのはタロー0歳のとき使ったな、ココは映画見るママたちにぜひみたいな意図で割と往来の多い場所にあり、普通の保育園みたいな感じだった。

託児サービスのあるホテル一覧【東京】@託児所ナビ

あと渋谷の無印良品のなかにもあって、ピジョンが運営している。金土日月だけ、お買い物時にどうぞという。1時間1000円は安いと思う。使ったことないけど、隣接する遊び場にはよく行ったな。渋谷は授乳室も多くないので便利でした。

www.muji.net

ホテルの預かりは高確率で1対1になるのが安心。

それまで選択肢になかったので知らなかったのだが、調べると、普通の民間保育園でも一時預かりサービスをやっているところはちょいちょいある。レギュラーで通っている子もいつつ、一時の子も受け入れている、という。大抵ホテルよりはちょっとは安い。

それで、なぜ最初からホテルの一時預かりしか思いつかなかったんだろう、上記を知った上でもやはり、高くてもホテルを使うかなと思うのはなぜかと考えてみた。ホテルの一時預かりの大きな利点は、基本的に子どもと保育士さんがほぼ1対1になることだと思う。

とくにわたしのように、平日昼間に2時間だけ仕事のために利用するといった場合、予約がかぶる確率はかなり少ないんじゃないだろうか。仮に入っていても、0歳だとたしか1人の保育士さんに対して2人までだし、ほかの子がいないから気をとられることもなく、レギュラーの子がいる保育園よりもリスクが低いのではないか。

ただし不安もある。運営会社はチェックしよう。

でも、ホテルだから安心というわけでもない。ベビーシッティングのサービスを提供しているのはホテル自体ではなく、提携の運営会社なので、もちろんホテルのネームバリューなりの信頼を担保していると思うけど、チェックは欠かせないと思う(ちなみにニューオータニは、宝珠ベビーケアサービスという会社の運営)。

このニューオータニに預けたあとに、ひやっとしたことがあった。ある朝イチの仕事のとき、再度どうしても一時預かりを使う必要があったのだが、仕事の現場からニューオータニやほかのホテルは遠かった。

それでたまたま前述の「一時預かりをしている民間保育園」という選択肢に行き着いて、近場で調べたら同じ運営会社の園が2つあったので、問い合わせた。が、両方ともいっぱい。これは……現場に行きたかったが取材は音声で対応するか、と思ったら、実家の予定が変わって預かってくれることになったので、しのげたのだった。

あとから知ったこと。その運営会社の別の園で、重大な事故が起きていた。その会社は都内や関西の有数のホテルや商業施設内にたくさん保育園やベビールームを持っていて、それをわたしも見て「この会社なら大丈夫かな」と判断したので、文字どおりからだが冷たくなる思いがした。

預けることと、仕事の重要性と。

ベビーシッターやこうした一時預かりを使うのに、否定的な人もいる。ホテルだろうがなんだろうが、信じられないという人もいると思う。

その線引きは人それぞれの価値観だから難しくって、なんなら「0歳や1歳で保育園に預けるなんて、信じられない! ぜったい3歳までは手元で育てるべき!」という、いわゆる3歳神話の信望者も、たぶんわたしが思うより多くいそうな気がする。

ただ、そこはやはり、できるだけ信頼性を吟味することと同時に、預けてまで対応すべき仕事なのだと心を強く持つしかない。そうじゃないと、本当、ぐらつくよね。一時預かりに限らず、働くママはみんなそんな気持ちを毎日、のどもとまでひたひたとたたえながら通勤電車に揺られてる。

(わたしは通勤してませんけど、心は同じですよ)。んー、でもそういう考えも自分を追いつめるかなぁ。わたしは実家が近くて親も元気なので本当に助かってるけど、実家に頼れない人も、気軽に子どもを預けて息抜きできるような場がもっとあったらいいのにね。

過去ブログ:「ふらっと飲み」をしたいのです。

のんべえには多かれ少なかれ、「ふらっと飲みたい」願望がある。

友人や恋人と行く店を約束して、指折り数えて待つ酒の席もすばらしい。酔いを気にせず長々と飲めるホームパーティーもすばらしい(特に子が生まれてからは、自宅に友人が来てくれて飲める機会のうれしいことよ)。うーんと、いずれの席もまあすばらしい。でも、休日の午後や夕方、目的なく街を歩いていて、あ、よさそうな店だね、まだ飲むには早いけど……飲んじゃう? というこの提案の!楽しさ!これはいずれの酒の席とも比べられない。

だいたい、飲むには早いなどと時間を考えたこともない私だが、この何も決めない気楽さが、ふらっと飲みのいいところ。今日、そういう自由な時間があること、そもそもそういう自由な立場にあることが、バタバタもがいてるけど一応大人なんだなと思わせたりする(ちっさい)。場所は、外の席がいいですね。夕方、あるいは14時でもなんなら午前でも私はかまわない。倫理的にはしらん。

そういう自由を、子どもが生まれてからなかなか謳歌しづらい。ふらっと入ったカフェにビールやワインがあれば遠慮なく頼み、夫の前に置かれるそれをぐいっと私の前に引き寄せて店員さんを困惑させたりもするが、やはりカフェでは物足りない。皆さんがお茶しよ〜という雰囲気だから。

もちろん、子をだれかほかの人が見ているならいくらでも飲み屋に行けるけど、夫婦+子連れでは難しいし、子が寝ていたとしても、店の雰囲気というものがある。来ている人のじゃまになりたくない。っていうか、別に子を連れて行きたいわけじゃない。

なので、子連れで飲み屋に行くという発想を持っていなかったし、先日たまたま新宿御苑に行った帰りに新宿三丁目の飲み屋付近を通りかかったときもそうだった。

昔しばしば行った懐かしい立ち飲み屋を、ちょっと見たいだけだった。酒屋のような外観で、夕方になると店のガラス戸の外側にも樽やらなにやらが出てきてテーブルになる。路上である。路上で立ち飲み。好物である。ああまだあるな、と見やったらあなた。外の席に、我々と同じようにベビーカーに子を乗せた若い夫婦がジョッキをあおっているではないの。16時。

店内はこの時間ながらそこそこ満席だったが、路上の席にはその若い夫婦+ベビしかいなかった。思わず足が止まり、その若いママと目が合うような、あっ、ですよね~てへへと示し合わせるような、そんな感じで入口といめんの樽に陣取るよね。お店の人も慣れたもののようで、ドーゾー!と。

1杯だけ。ジョッキ1杯と、串2本ずつと煮込み。結局、寝るかと思いきや子は寝ず、じっとしているのに飽きてきて夫と交代で周辺を散歩したりしたので、結局一緒には飲んでいないような感じだったが、ふらっと夫と飲みたかったのである。ほんの30分でも。

その間、もう一組、ベビ連れの夫婦が来た。先客夫婦の隣について、何カ月ですか~?と談笑しはじめる。居酒屋に子連れで行くのはほめられたことじゃないし、ふつうに上がり込むことはしないけど、子がぎりぎり親の付属物っぽいころまでは、こうして1杯だけ夕涼みするくらい許してくれ。いろいろな世間の風当たりの強さや、親たるものの「べき」論を目にするので、ついこそこそっとなる。

こそこそっと、ジョッキをあおって味わう夕方の生ビール。かつての楽しみを、ちょっと思い出したいだけなのよ。そんな感覚を、会話こそしなかったけど、ほか二組の夫婦となんとなく共有したつもりになって、がんばって1杯で樽のテーブルをあとにした。

過去ブログ:ミガミガをめぐる攻防。(タロー1歳7カ月)

ミガミガとは、ハミガキのことである(我が家用語)。

子はミガミガがきらいである。ミガミガしよう!といって私が歯ブラシを持ってくると、自分の布団につっぷして防御姿勢をとる。まあ、ハミガキ好きな子どもはそういないだろうが、乳歯といえ虫歯になっても困る。そこでいくつか工夫をしている。

ひとつは、「おかあさんといっしょ」に「は・み・が・き・じょうずかな〜?」という子どもがハミガキをするコーナーがあるので、朝の時間にそれが放映されたらすかさず歯ブラシをわたすこと。すると、にや〜としながら自分で手を動かす。調子がよければその後、テレビの中の子がお母さんにバトンタッチするくらいで私に歯ブラシをわたしてくるので、そのまま磨いてやる。

もうひとつは、みんなやってるよ作戦である。子の布団のまわりには何匹かの構成メンバーがいる。50cmくらいの、大きめのくまモンを筆頭に、子のお気に入りの仲間を並べていつも寝ている。母のミガミガ攻撃をかわそうと布団につっぷした子を起こして歯ブラシを持たせ、「ほら、くまモンもミガミガするって!」というと、うれしそうにくまモンにミガミガをしてやる。

ずいぶん前、思いつきで初めてやったときに効果テキメンだったのだ。でも、くまモンで終わらなかったのは誤算だった。子の仲間はもう少しいた。

くまモンのつぎは、犬である。かつて私の実家で飼っていた犬にそっくりなので、その子の名前をつけている。最近は私が「ミガミガしてって言ってるよ?」と促さなくても、自分で歯ブラシを向けて「あ!(こっちに顔を向けて!)」と催促する。

つぎは、ネコである。私がむかーしユナイテッドアローズで買った、でろんと体の長い青い目のネコだ。にゃーにゃと呼んでいる。にゃーにゃにもミガミガする。

子はミガミガを避けたい一心で、つぎはソフィーさんだと主張する。ソフィーさんとは、フランスではどの子どもも持っているという、きりんのゴムのおもちゃである。押すとピイピイ鳴るやつだ。これを子が生まれたときにフランス在住の友人にもらって、0歳のころはいつもいつも噛んでいた。そんなソフィーさんの口元は歯ブラシのブラシ部分よりせまいのだが、それでもミガミガしてやる。

さらに、ふだんはカゴにしまってある別のおもちゃを出してきたり、間に私にも歯ブラシがかざされたりするので、磨くフリをする。

そしてくまモンに戻る。無限ループに持ち込もうとするのをさすがに阻止すると、また布団につっぷして防御姿勢をとる子。を捕獲し仰向けにして母は「は・み・が・き・じょうずかな〜?」をがなりながら、もとい歌いながら小さな歯を磨くのだが、1分とじっとしていない。目的までの儀式は長いが、目的の遂行は一瞬だ。

毎晩めんどくさすぎるのだが、私をごまかそうと、にや〜としながら「あ?(つぎはこの子でしょ?)」と言いつづけるのについ付き合ってしまう。まあ、最終的にミガミガは避けられないと、最近は子もわかっている。今日はいつまで引き延ばせるか、腹の探り合いというあそびなのだ。みんなやってるよと子に教えてしまったのは私なので、かくして一応は「我が仲間たち全員にミガミガするのである」との子の希望を満たしてやってからひっつかまえて高速で本来の目的を遂行する。夜だから母の気力も残っていないので、いまのところこれが最適な戦術なのである。

過去ブログ:iPadが好きなの。(タロー1歳6カ月)

んー。あんまり積極的に見せているわけではないのだが、iPadで写真や動画を撮ったりしていてそれを我々が見るのを知っているので、すごく見たがる。

とくに好きなのは、お友達と一緒に撮った動画。「○○」「○○」と、その子の名前を言っては、その動画が見たいと主張する。先日とうとう、再生ボタン(▷)の仕組みを覚えてしまった。まあ、そりゃ時間の問題である。

そのほかに我が家ではiPadでテレビを見ていて、朝、私が支度をする30分だけEテレおかあさんといっしょなどを見せている。あとは、おれねことかかなぁ。だからiPadを指して「わんわん」「にゃーにゃー」=犬ねこを見たい!ともときどき言う。でもまあそういうときは積極的にネット動画を探すわけでもなく、ほかのことで気をそらすのだが。

海外在住の親戚が遊びにきていて、ちょうど同じ歳の子がいるので、iPad問題iPhone問題がちょっと話題になった。たまたま住んだ土地に日本人が多かったそうだが、日本語教室などで会ったママたちとレストランなどに行くと、皆がiPhoneアンパンマンなどの動画を見せているので「あんまりなぁ」と思っていたという。

でもこっちでマンスリーアパートメントみたいなのを借りて、外食の機会が多くなると、もうそんなこと言ってられないと。そーだよねー。と激しく同意。というのもつい先週、前にたまに行ってた近所のピザ屋から「子連れ歓迎!」とチラシが入っていたので行ったところ、「あー1歳半つれて外食ムリムリ、テイクアウト万歳」と痛感したのである。鮮魚ですよ、ぴちぴち鮮魚。

たぶん、iPhoneで動画を見せれば、うちの子もおとなしくしていたと思う。そして我々もおいしいねとか言い合いながら二人で一緒にピザを食べられたと思う。でも普段、iPhoneで動画を見せるとかをしていないので、そのときそんな策が思いつかず、絵本も持ってきてなくて(ダメじゃん!)、結局交代で手遊びをしたりおうたを歌ったり、テラス席貸し切り状態だったんでちょっと抱っこしてうろうろしたりして、バトンをわたすかのごとくピザをかわりばんこに急いで食べ、店をあとにしたのだった。

我々はかなり頻繁にケータイを触っている。仕事のメールもチェックするし、SNSも見ない日はないし、レシピもネットで見るし。なのでこれらの機器に興味を持つなと子どもにいうのは無理である。だいたい、iPadを子どもに向けて写真や動画を撮ってるんだし。

こういう社会に生きている以上、排除は無理であるし、実際私もそんなに悪影響ばかりとは思ってない。テレビ番組も含めてね、ああいうスクリーンで見る動画について。でも、やっぱり絵本に比べれば情報量が子どもが処理するには多く、声色を変えて絵本を読んでやったり、うたを歌いながら手のフリをつけたりしたときの、わくわく感いっぱいの表情や真似する動作のようなものは、なかなかスクリーンを見せているだけでは出てこない。好きなおうた&ダンスがかかったときとか、ときどきはあるけど、8割方、食い入るように画面を見つめている。同じ時間をそんな感じで過ごすなら、こっちに余裕がある限り、絵本や手遊びで遊んでやろうかしらん、と。

もう少し大きくなったら、アニメ作品や映画なんかも楽しめるだろう。そういうストーリーから受ける刺激や、わき起こる感情というのもきっと成長には大事なんだろうが、今はとりあえずiPhone見せるくらいなら子連れ外食は諦めるか、というところ。んー、電車でどうしても騒いで困ったときくらいかなぁ。

ただね、毎日毎日お友達と一緒にケタケタ笑い転げている動画を見たがるので、それはなんか毎日要望に応えてやってもいい気がしている。ほっとくとずっと▷を押して見続けそうで、それはそれで困るのだが。楽しかったんだよね、そうだよね、また会いたいね、と思いながら何度も▷を押す子を眺めている(5分くらい)。

これ、写真だとどうなんだろうと思って、プリントしようと思ってるんだが。その子と一緒に撮った写真をプリントしてアルバムにしてやったら、それを見ればある程度満足するんだろうか。やっぱり動くのがいいのかな。まぁ、そりゃそうか。

それにしても、親と撮った動画にはあまり興味を示さない。お友達と笑い転げているのがダントツ一位なのである。

過去ブログ: いぬとぶたの区別。(タロー1歳6カ月)

連休中、遠出はしなかったが基本ずっと大人2人で相手をしていたせいか、語彙がいっきに増えた子。休み明けには園で先生にも驚かれた。名詞と、「おもい(重い)」「いたい」「ちいさい」などの形容詞がたくさん出てくるようになった。まあ、マネしてるだけで、意味はわかってないことも多いようだが。

動物にかんして英才教育をしていると書いた。のだが、わんわん・にゃーにゃーと言い始めた1歳前くらいにわたしが興味深かったのは、なにをもっていぬとネコを見分けているのかな、ということ。

ネコはリアルネコでも、絵本のなかのネコでも、だいたいサイズが均一。リアルネコの立ち居振る舞いはしなやかで、耳が上向きにピンと立っていて、はつらつというよりは「しれっ」としている。絵本ではだいたい目がらんらんとし、縦長の瞳孔がしっかり描かれている。そんなネコ特有の雰囲気を子が感じているかは知らんが、どうも、いぬよりもネコのほうが識別しやすいようだ。ぞうやきりん、パンダ、それからライオンやトラなどの「がおー」グループなど、形態が特徴的なものは前から区別がついていたが、その他の四つ足の動物はだいたいが「わんわん」だった。

それがだな。連休前に突然、気に入っているこの「こどもずかん」を見ながら「ぶた」と言ったので、びっくりした。こどもずかん、コレね。指差して読み上げを要求されていたが、最近は自分で読むようになった。

0さい~4さい こどもずかん 英語つき

0さい~4さい こどもずかん 英語つき

なにをもって、いぬとぶたを識別しているのだろう。ぺろっとした垂れ耳のいぬもいるので、やっぱりつぶれた鼻かな。あとはずんぐりした胴体か。ほぼ同時に、牛や馬もわかってきたようだ。絵本を読みながら「絵を眺める」というよりちゃんと読んでいる、絵を識別しているかんじがよりはっきり出てきた。

で、どんどん語彙が増えていくな〜と思っていた連休明けの2日後くらい、これまで「てんてい(先生)」とは言っていた子が初めて「○○てんてい」と、特定の先生の名前を口にした。発話しやすいというのもあるのかもしれんが、0歳クラスからの持ち上がりの先生なので、いちばん親しみがあるのだと思う。いまもかなりメインで面倒をみてくれてるようす。

それでわたしは一瞬、いぬぶた案件のように、うーんそういうとなんか語弊がある気もするが、とにかく「○○先生って言えるようになったね!」と、それ自体に意味があるように感じたんだけど、考えてみれば前からちゃんとそれぞれの先生の区別はついていた。

「てんてい」としか言えなかったときも、きっと○○先生のことを言っていたことがあったのだと思う。△△先生のことを指して言ったときも、きっとあった。あるいは園の知ってる先生みんなのことを指していたこともあっただろうけど、個別の先生の名前を言えるようになったからといってそのときがイコール子のなかでその先生がはっきり認識された瞬間ではない。もっとずっと前から、ちゃんとわかっていた。心のなかでは、あの先生、この先生、ちゃんとわかってる。

これはいぬぶた案件ではない。ぶたは、これまで「わんわん」と言っていたときは子にとってぶたはわんわんで、「ぶた」と言えたときが「これがぶたなんだ!」とわかった瞬間かもしれないけど、そういうほうが少ないのかもしれない。どんどん発話するから、つい発話したことに大きな意味があるような、発話がつまり子がそれを認識した瞬間のようにとらえてしまう。でもまだ氷山のほんの少し、ぴょこっとあたまのところだけが言葉になっていて、もっとたくさんのことが「わかっている」こととして存在している。

もちろん、ひとつひとつ言えるようになることは喜ばしいことだ。でも発話のような外部に明らかな発現の数よりももっと膨大なものごとが、子のなかで毎日毎日わかって、定着していっている。発話以外にも、表情や行動にもそういうサインがあるんだろうけど、わたしが確認できることがすべてじゃないと忘れないようにしよう、と思った。

ちなみに最近、「ハミガキする?」とか「パンをつまみぐいしたでしょ!」とか、都合の悪い問いかけには「え?」といたずら顔で聞こえないフリをするようになった。ごまかすことを覚えた1歳6カ月。それなりの知恵だのう。

過去ブログ: きみには名前がある。(タロー1歳5カ月)

我が家は動物にかんしては英才教育をしておりますので、子は小さいころから「0655」の「おれねこ」「わたしいぬいぬ」、そして「めざましテレビ」の「きょうのわんこ」に慣れ親しんでいる。いつごろだったかな、7、8か月ごろに初めての喃語「まんま(ごはん)」を口にし出すようになったころ、当然のように「わんわん」「にゃーにゃー」というようになった。

いま、もっといろいろ言葉を覚えている最中なのだけど、拡張したと感じたことがある。それは、犬の総称(なんなら子にとってはブタも羊も含めて犬っぽい動物)としてのわんわんではなくて、母であるわたしが「まま」、夫が「ぱぱ」、そして自分が「○○(自分の名前)」だという認識ができてきたということ。

先日、園のクラス編成が進級で一新されたので、4月号のおたよりの裏面にカラーで各クラスの先生が顔写真つきで載っていた。それを見ていたら子が強く興味を示し、就寝前で眠いにもかかわらず、延々とそれぞれの先生の顔を指差してはわたしに先生の名前を呼んでくれとせがんだ。やめようとすると怒って泣く。けっきょく、15分くらいやっていたんじゃなかろうか。写真がそこまで鮮明ではなかったのと、まだそこまでは知恵が発達してないためだろう、「○○先生は?」といって指を指して当たる確率は低かったけど。でも翌朝も、「てんてい」といってそのおたよりを読みたがった。

そんなことがあって、固有の名前があるということがわかってきてるんだなと感じている。自分の昔(っていったって子の過去は1年半しかないのだが)の写真や、鏡を見てもちゃんと「○○」と自分の名前をいうようになって、興味深い。進級の前くらいから、お友達の名前はわかってきましたよ〜と園で聞いていたんだけど、さいきんとくに頻繁に、自分の鼻や胸に手をやって自分の名前を主張しているので、自己への関心、気づきみたいなのが出てきたんだなと思って見ている。

きみには名前がある。お友達にも先生にも名前がある。ひとは一人ひとり、名前があって、違うひとなんだよ。顔も中身も違ってあたりまえなんだよ。そんなことをいま言ってもなんのこっちゃ子にはわからないわけだけど、ゆっくり、知ってほしいと思っている。

「まま」や「ぱぱ」にも固有の名前があることを理解できるのは、いつごろなんだろう。前に、お迎えのあとに駅のあたりで、仕事を終えて帰る先生たちに会ったとき、子は先生たちの顔を凝視しながら状況が理解できないみたいな顔をしていた。先生たちが笑いながら「私たち、園に住んでるんじゃないんだよ〜」と言ってはじめて、そうか、子にとっては園で会う先生が先生のすべてなんだ、とわかった。自分と接していない時間にも、そのひとの世界があること。自分にとってのぱぱやままにも、世界があること。そういうことを理解する瞬間に、私は気づくことができるかなぁ。

過去ブログ:子どもと世界(タロー1歳5カ月)

おかあさんといっしょ」の洋服をたたむコーナーを見ながら練習してるんだぜ。

1歳5カ月になり、園のクラスもおととい進級。初日、ひとりだけ前のクラスからの持ち上がりの先生にしがみつくようにしていたので、なんか違うと感じてるのかしらん?と思いきや、お迎え時にきくと「いや~前からこのクラスにいたよ!って顔してました笑」といわれたw

「あめ」「あわ」「かぎ」など単語をいろいろ言うようになり、絵本でも効果音や動作をまねしたり赤ちゃんが出てくるところで泣きまねをしたりと、いろいろな情報があたまのなかで組み立てられてちゃんと像を結ぶようになってきているのがわかる。

Eテレもつければ楽しく見てるけど、いちばんのエンタメは絵本のようで、自分で選んで持ってくる。絵本の主人公と同じことをして共感するというか、ぼくもできるという喜びと、もうひとつは絵本で見た月や電車がリアルな世界にもある、あれのことなんだという発見という2つがあるようだ。

絵本を通して、世界をいま知っている最中なのだと、絵本に熱中するようすを見て実感する。世界と、そこにおける自分。まだ点と点なんだけど、電車の絵を見て「ブーン!ブーン!」といえる自分は世界を知っているんだ、という手ごたえを子はちいさいながら感じているのだなあ。

ひるがえって、能力的にカエルの子はカエルなのは前提として、それでもどうやって生きる力をつけてやれるのか、ということを最近考えている。生きる力というのは、心と体の健康がひとつ。もうひとつは教養、ひいては稼ぐ力というのかな。自分の力で社会とわたりあえること。

そしてこの子が大人になるころ(というかすでにいま)、その「教養」には「英語が使える」ことが必ず含まれるなとひしひしと感じている。

では日本に住んで、英語が日常にない家庭で、どうやって身につければいいのかな。こつこつ習い事と、やはり留学か。ほら、わたし英語できないじゃん(誰向け?)。言葉を扱う仕事をしているから、英語ができないということはすなわちこのさき国内ででしか仕事できないってことで、逆に、英語さえできれば相当応用できたはずだなと考える。若いころはそんな見通しも立たなかったし、そのとき向き合っていたものを放り投げて無目的に英語しゃべれるようになりたい!だけで突っ走ることもできなかったが。

私が10代のころ、親に留学を勧められたこともあったと思う。でも耳を貸さなかったし真剣に考えていなかった。というかそのときの1分1秒にもうおぼれそうになっていたので、先のことなんか考えられなかった。別に英語のことに限らず、なにかに熱中することを阻害せずにでも先のことを考えられるような、そういう余裕を持てるように、フォローするのがひとつ必要なのかもしれない。

ふむ。絵本に戻ると、最近買ってしばらくはまっていたのは『だるまさんの』。とある遊び場で見つけて気に入ったようすだったので。

だるまさんの (かがくいひろしのファーストブック)

だるまさんの (かがくいひろしのファーストブック)

 

あと、この「絵本ナビ」というサイトで見つけて、絵がかわいかった「しーっ」。さいごにうさぎの赤ちゃんが出てくるところで、顔をくしゃっとさせて「エ、エ、エ」と泣きまねをします。

www.ehonnavi.net

月齢、年齢が進むにしたがって、だんだん高度な感情を扱うものを好むようになるのだろう。あと、おさがりでもらった恐竜の図鑑や、動物の解説本なんかも好きみたい。いろんな種類があるっていうことに興味を持つというのもまた興味深いなー。