ふりにじ。

フリーランス2児の母が、編集ライターをしながら考えたり試したりするブログ

過去ブログ:ミガミガをめぐる攻防。(タロー1歳7カ月)

ミガミガとは、ハミガキのことである(我が家用語)。

子はミガミガがきらいである。ミガミガしよう!といって私が歯ブラシを持ってくると、自分の布団につっぷして防御姿勢をとる。まあ、ハミガキ好きな子どもはそういないだろうが、乳歯といえ虫歯になっても困る。そこでいくつか工夫をしている。

ひとつは、「おかあさんといっしょ」に「は・み・が・き・じょうずかな〜?」という子どもがハミガキをするコーナーがあるので、朝の時間にそれが放映されたらすかさず歯ブラシをわたすこと。すると、にや〜としながら自分で手を動かす。調子がよければその後、テレビの中の子がお母さんにバトンタッチするくらいで私に歯ブラシをわたしてくるので、そのまま磨いてやる。

もうひとつは、みんなやってるよ作戦である。子の布団のまわりには何匹かの構成メンバーがいる。50cmくらいの、大きめのくまモンを筆頭に、子のお気に入りの仲間を並べていつも寝ている。母のミガミガ攻撃をかわそうと布団につっぷした子を起こして歯ブラシを持たせ、「ほら、くまモンもミガミガするって!」というと、うれしそうにくまモンにミガミガをしてやる。

ずいぶん前、思いつきで初めてやったときに効果テキメンだったのだ。でも、くまモンで終わらなかったのは誤算だった。子の仲間はもう少しいた。

くまモンのつぎは、犬である。かつて私の実家で飼っていた犬にそっくりなので、その子の名前をつけている。最近は私が「ミガミガしてって言ってるよ?」と促さなくても、自分で歯ブラシを向けて「あ!(こっちに顔を向けて!)」と催促する。

つぎは、ネコである。私がむかーしユナイテッドアローズで買った、でろんと体の長い青い目のネコだ。にゃーにゃと呼んでいる。にゃーにゃにもミガミガする。

子はミガミガを避けたい一心で、つぎはソフィーさんだと主張する。ソフィーさんとは、フランスではどの子どもも持っているという、きりんのゴムのおもちゃである。押すとピイピイ鳴るやつだ。これを子が生まれたときにフランス在住の友人にもらって、0歳のころはいつもいつも噛んでいた。そんなソフィーさんの口元は歯ブラシのブラシ部分よりせまいのだが、それでもミガミガしてやる。

さらに、ふだんはカゴにしまってある別のおもちゃを出してきたり、間に私にも歯ブラシがかざされたりするので、磨くフリをする。

そしてくまモンに戻る。無限ループに持ち込もうとするのをさすがに阻止すると、また布団につっぷして防御姿勢をとる子。を捕獲し仰向けにして母は「は・み・が・き・じょうずかな〜?」をがなりながら、もとい歌いながら小さな歯を磨くのだが、1分とじっとしていない。目的までの儀式は長いが、目的の遂行は一瞬だ。

毎晩めんどくさすぎるのだが、私をごまかそうと、にや〜としながら「あ?(つぎはこの子でしょ?)」と言いつづけるのについ付き合ってしまう。まあ、最終的にミガミガは避けられないと、最近は子もわかっている。今日はいつまで引き延ばせるか、腹の探り合いというあそびなのだ。みんなやってるよと子に教えてしまったのは私なので、かくして一応は「我が仲間たち全員にミガミガするのである」との子の希望を満たしてやってからひっつかまえて高速で本来の目的を遂行する。夜だから母の気力も残っていないので、いまのところこれが最適な戦術なのである。

過去ブログ:iPadが好きなの。(タロー1歳6カ月)

んー。あんまり積極的に見せているわけではないのだが、iPadで写真や動画を撮ったりしていてそれを我々が見るのを知っているので、すごく見たがる。

とくに好きなのは、お友達と一緒に撮った動画。「○○」「○○」と、その子の名前を言っては、その動画が見たいと主張する。先日とうとう、再生ボタン(▷)の仕組みを覚えてしまった。まあ、そりゃ時間の問題である。

そのほかに我が家ではiPadでテレビを見ていて、朝、私が支度をする30分だけEテレおかあさんといっしょなどを見せている。あとは、おれねことかかなぁ。だからiPadを指して「わんわん」「にゃーにゃー」=犬ねこを見たい!ともときどき言う。でもまあそういうときは積極的にネット動画を探すわけでもなく、ほかのことで気をそらすのだが。

海外在住の親戚が遊びにきていて、ちょうど同じ歳の子がいるので、iPad問題iPhone問題がちょっと話題になった。たまたま住んだ土地に日本人が多かったそうだが、日本語教室などで会ったママたちとレストランなどに行くと、皆がiPhoneアンパンマンなどの動画を見せているので「あんまりなぁ」と思っていたという。

でもこっちでマンスリーアパートメントみたいなのを借りて、外食の機会が多くなると、もうそんなこと言ってられないと。そーだよねー。と激しく同意。というのもつい先週、前にたまに行ってた近所のピザ屋から「子連れ歓迎!」とチラシが入っていたので行ったところ、「あー1歳半つれて外食ムリムリ、テイクアウト万歳」と痛感したのである。鮮魚ですよ、ぴちぴち鮮魚。

たぶん、iPhoneで動画を見せれば、うちの子もおとなしくしていたと思う。そして我々もおいしいねとか言い合いながら二人で一緒にピザを食べられたと思う。でも普段、iPhoneで動画を見せるとかをしていないので、そのときそんな策が思いつかず、絵本も持ってきてなくて(ダメじゃん!)、結局交代で手遊びをしたりおうたを歌ったり、テラス席貸し切り状態だったんでちょっと抱っこしてうろうろしたりして、バトンをわたすかのごとくピザをかわりばんこに急いで食べ、店をあとにしたのだった。

我々はかなり頻繁にケータイを触っている。仕事のメールもチェックするし、SNSも見ない日はないし、レシピもネットで見るし。なのでこれらの機器に興味を持つなと子どもにいうのは無理である。だいたい、iPadを子どもに向けて写真や動画を撮ってるんだし。

こういう社会に生きている以上、排除は無理であるし、実際私もそんなに悪影響ばかりとは思ってない。テレビ番組も含めてね、ああいうスクリーンで見る動画について。でも、やっぱり絵本に比べれば情報量が子どもが処理するには多く、声色を変えて絵本を読んでやったり、うたを歌いながら手のフリをつけたりしたときの、わくわく感いっぱいの表情や真似する動作のようなものは、なかなかスクリーンを見せているだけでは出てこない。好きなおうた&ダンスがかかったときとか、ときどきはあるけど、8割方、食い入るように画面を見つめている。同じ時間をそんな感じで過ごすなら、こっちに余裕がある限り、絵本や手遊びで遊んでやろうかしらん、と。

もう少し大きくなったら、アニメ作品や映画なんかも楽しめるだろう。そういうストーリーから受ける刺激や、わき起こる感情というのもきっと成長には大事なんだろうが、今はとりあえずiPhone見せるくらいなら子連れ外食は諦めるか、というところ。んー、電車でどうしても騒いで困ったときくらいかなぁ。

ただね、毎日毎日お友達と一緒にケタケタ笑い転げている動画を見たがるので、それはなんか毎日要望に応えてやってもいい気がしている。ほっとくとずっと▷を押して見続けそうで、それはそれで困るのだが。楽しかったんだよね、そうだよね、また会いたいね、と思いながら何度も▷を押す子を眺めている(5分くらい)。

これ、写真だとどうなんだろうと思って、プリントしようと思ってるんだが。その子と一緒に撮った写真をプリントしてアルバムにしてやったら、それを見ればある程度満足するんだろうか。やっぱり動くのがいいのかな。まぁ、そりゃそうか。

それにしても、親と撮った動画にはあまり興味を示さない。お友達と笑い転げているのがダントツ一位なのである。

過去ブログ: いぬとぶたの区別。(タロー1歳6カ月)

連休中、遠出はしなかったが基本ずっと大人2人で相手をしていたせいか、語彙がいっきに増えた子。休み明けには園で先生にも驚かれた。名詞と、「おもい(重い)」「いたい」「ちいさい」などの形容詞がたくさん出てくるようになった。まあ、マネしてるだけで、意味はわかってないことも多いようだが。

動物にかんして英才教育をしていると書いた。のだが、わんわん・にゃーにゃーと言い始めた1歳前くらいにわたしが興味深かったのは、なにをもっていぬとネコを見分けているのかな、ということ。

ネコはリアルネコでも、絵本のなかのネコでも、だいたいサイズが均一。リアルネコの立ち居振る舞いはしなやかで、耳が上向きにピンと立っていて、はつらつというよりは「しれっ」としている。絵本ではだいたい目がらんらんとし、縦長の瞳孔がしっかり描かれている。そんなネコ特有の雰囲気を子が感じているかは知らんが、どうも、いぬよりもネコのほうが識別しやすいようだ。ぞうやきりん、パンダ、それからライオンやトラなどの「がおー」グループなど、形態が特徴的なものは前から区別がついていたが、その他の四つ足の動物はだいたいが「わんわん」だった。

それがだな。連休前に突然、気に入っているこの「こどもずかん」を見ながら「ぶた」と言ったので、びっくりした。こどもずかん、コレね。指差して読み上げを要求されていたが、最近は自分で読むようになった。

0さい~4さい こどもずかん 英語つき

0さい~4さい こどもずかん 英語つき

なにをもって、いぬとぶたを識別しているのだろう。ぺろっとした垂れ耳のいぬもいるので、やっぱりつぶれた鼻かな。あとはずんぐりした胴体か。ほぼ同時に、牛や馬もわかってきたようだ。絵本を読みながら「絵を眺める」というよりちゃんと読んでいる、絵を識別しているかんじがよりはっきり出てきた。

で、どんどん語彙が増えていくな〜と思っていた連休明けの2日後くらい、これまで「てんてい(先生)」とは言っていた子が初めて「○○てんてい」と、特定の先生の名前を口にした。発話しやすいというのもあるのかもしれんが、0歳クラスからの持ち上がりの先生なので、いちばん親しみがあるのだと思う。いまもかなりメインで面倒をみてくれてるようす。

それでわたしは一瞬、いぬぶた案件のように、うーんそういうとなんか語弊がある気もするが、とにかく「○○先生って言えるようになったね!」と、それ自体に意味があるように感じたんだけど、考えてみれば前からちゃんとそれぞれの先生の区別はついていた。

「てんてい」としか言えなかったときも、きっと○○先生のことを言っていたことがあったのだと思う。△△先生のことを指して言ったときも、きっとあった。あるいは園の知ってる先生みんなのことを指していたこともあっただろうけど、個別の先生の名前を言えるようになったからといってそのときがイコール子のなかでその先生がはっきり認識された瞬間ではない。もっとずっと前から、ちゃんとわかっていた。心のなかでは、あの先生、この先生、ちゃんとわかってる。

これはいぬぶた案件ではない。ぶたは、これまで「わんわん」と言っていたときは子にとってぶたはわんわんで、「ぶた」と言えたときが「これがぶたなんだ!」とわかった瞬間かもしれないけど、そういうほうが少ないのかもしれない。どんどん発話するから、つい発話したことに大きな意味があるような、発話がつまり子がそれを認識した瞬間のようにとらえてしまう。でもまだ氷山のほんの少し、ぴょこっとあたまのところだけが言葉になっていて、もっとたくさんのことが「わかっている」こととして存在している。

もちろん、ひとつひとつ言えるようになることは喜ばしいことだ。でも発話のような外部に明らかな発現の数よりももっと膨大なものごとが、子のなかで毎日毎日わかって、定着していっている。発話以外にも、表情や行動にもそういうサインがあるんだろうけど、わたしが確認できることがすべてじゃないと忘れないようにしよう、と思った。

ちなみに最近、「ハミガキする?」とか「パンをつまみぐいしたでしょ!」とか、都合の悪い問いかけには「え?」といたずら顔で聞こえないフリをするようになった。ごまかすことを覚えた1歳6カ月。それなりの知恵だのう。

過去ブログ: きみには名前がある。(タロー1歳5カ月)

我が家は動物にかんしては英才教育をしておりますので、子は小さいころから「0655」の「おれねこ」「わたしいぬいぬ」、そして「めざましテレビ」の「きょうのわんこ」に慣れ親しんでいる。いつごろだったかな、7、8か月ごろに初めての喃語「まんま(ごはん)」を口にし出すようになったころ、当然のように「わんわん」「にゃーにゃー」というようになった。

いま、もっといろいろ言葉を覚えている最中なのだけど、拡張したと感じたことがある。それは、犬の総称(なんなら子にとってはブタも羊も含めて犬っぽい動物)としてのわんわんではなくて、母であるわたしが「まま」、夫が「ぱぱ」、そして自分が「○○(自分の名前)」だという認識ができてきたということ。

先日、園のクラス編成が進級で一新されたので、4月号のおたよりの裏面にカラーで各クラスの先生が顔写真つきで載っていた。それを見ていたら子が強く興味を示し、就寝前で眠いにもかかわらず、延々とそれぞれの先生の顔を指差してはわたしに先生の名前を呼んでくれとせがんだ。やめようとすると怒って泣く。けっきょく、15分くらいやっていたんじゃなかろうか。写真がそこまで鮮明ではなかったのと、まだそこまでは知恵が発達してないためだろう、「○○先生は?」といって指を指して当たる確率は低かったけど。でも翌朝も、「てんてい」といってそのおたよりを読みたがった。

そんなことがあって、固有の名前があるということがわかってきてるんだなと感じている。自分の昔(っていったって子の過去は1年半しかないのだが)の写真や、鏡を見てもちゃんと「○○」と自分の名前をいうようになって、興味深い。進級の前くらいから、お友達の名前はわかってきましたよ〜と園で聞いていたんだけど、さいきんとくに頻繁に、自分の鼻や胸に手をやって自分の名前を主張しているので、自己への関心、気づきみたいなのが出てきたんだなと思って見ている。

きみには名前がある。お友達にも先生にも名前がある。ひとは一人ひとり、名前があって、違うひとなんだよ。顔も中身も違ってあたりまえなんだよ。そんなことをいま言ってもなんのこっちゃ子にはわからないわけだけど、ゆっくり、知ってほしいと思っている。

「まま」や「ぱぱ」にも固有の名前があることを理解できるのは、いつごろなんだろう。前に、お迎えのあとに駅のあたりで、仕事を終えて帰る先生たちに会ったとき、子は先生たちの顔を凝視しながら状況が理解できないみたいな顔をしていた。先生たちが笑いながら「私たち、園に住んでるんじゃないんだよ〜」と言ってはじめて、そうか、子にとっては園で会う先生が先生のすべてなんだ、とわかった。自分と接していない時間にも、そのひとの世界があること。自分にとってのぱぱやままにも、世界があること。そういうことを理解する瞬間に、私は気づくことができるかなぁ。

過去ブログ:子どもと世界(タロー1歳5カ月)

おかあさんといっしょ」の洋服をたたむコーナーを見ながら練習してるんだぜ。

1歳5カ月になり、園のクラスもおととい進級。初日、ひとりだけ前のクラスからの持ち上がりの先生にしがみつくようにしていたので、なんか違うと感じてるのかしらん?と思いきや、お迎え時にきくと「いや~前からこのクラスにいたよ!って顔してました笑」といわれたw

「あめ」「あわ」「かぎ」など単語をいろいろ言うようになり、絵本でも効果音や動作をまねしたり赤ちゃんが出てくるところで泣きまねをしたりと、いろいろな情報があたまのなかで組み立てられてちゃんと像を結ぶようになってきているのがわかる。

Eテレもつければ楽しく見てるけど、いちばんのエンタメは絵本のようで、自分で選んで持ってくる。絵本の主人公と同じことをして共感するというか、ぼくもできるという喜びと、もうひとつは絵本で見た月や電車がリアルな世界にもある、あれのことなんだという発見という2つがあるようだ。

絵本を通して、世界をいま知っている最中なのだと、絵本に熱中するようすを見て実感する。世界と、そこにおける自分。まだ点と点なんだけど、電車の絵を見て「ブーン!ブーン!」といえる自分は世界を知っているんだ、という手ごたえを子はちいさいながら感じているのだなあ。

ひるがえって、能力的にカエルの子はカエルなのは前提として、それでもどうやって生きる力をつけてやれるのか、ということを最近考えている。生きる力というのは、心と体の健康がひとつ。もうひとつは教養、ひいては稼ぐ力というのかな。自分の力で社会とわたりあえること。

そしてこの子が大人になるころ(というかすでにいま)、その「教養」には「英語が使える」ことが必ず含まれるなとひしひしと感じている。

では日本に住んで、英語が日常にない家庭で、どうやって身につければいいのかな。こつこつ習い事と、やはり留学か。ほら、わたし英語できないじゃん(誰向け?)。言葉を扱う仕事をしているから、英語ができないということはすなわちこのさき国内ででしか仕事できないってことで、逆に、英語さえできれば相当応用できたはずだなと考える。若いころはそんな見通しも立たなかったし、そのとき向き合っていたものを放り投げて無目的に英語しゃべれるようになりたい!だけで突っ走ることもできなかったが。

私が10代のころ、親に留学を勧められたこともあったと思う。でも耳を貸さなかったし真剣に考えていなかった。というかそのときの1分1秒にもうおぼれそうになっていたので、先のことなんか考えられなかった。別に英語のことに限らず、なにかに熱中することを阻害せずにでも先のことを考えられるような、そういう余裕を持てるように、フォローするのがひとつ必要なのかもしれない。

ふむ。絵本に戻ると、最近買ってしばらくはまっていたのは『だるまさんの』。とある遊び場で見つけて気に入ったようすだったので。

だるまさんの (かがくいひろしのファーストブック)

だるまさんの (かがくいひろしのファーストブック)

 

あと、この「絵本ナビ」というサイトで見つけて、絵がかわいかった「しーっ」。さいごにうさぎの赤ちゃんが出てくるところで、顔をくしゃっとさせて「エ、エ、エ」と泣きまねをします。

www.ehonnavi.net

月齢、年齢が進むにしたがって、だんだん高度な感情を扱うものを好むようになるのだろう。あと、おさがりでもらった恐竜の図鑑や、動物の解説本なんかも好きみたい。いろんな種類があるっていうことに興味を持つというのもまた興味深いなー。