ふりにじ。

フリーランス2児の母が、編集ライターをしながら考えたり試したりするブログ

過去ブログ: きみには名前がある。(タロー1歳5カ月)

我が家は動物にかんしては英才教育をしておりますので、子は小さいころから「0655」の「おれねこ」「わたしいぬいぬ」、そして「めざましテレビ」の「きょうのわんこ」に慣れ親しんでいる。いつごろだったかな、7、8か月ごろに初めての喃語「まんま(ごはん)」を口にし出すようになったころ、当然のように「わんわん」「にゃーにゃー」というようになった。

いま、もっといろいろ言葉を覚えている最中なのだけど、拡張したと感じたことがある。それは、犬の総称(なんなら子にとってはブタも羊も含めて犬っぽい動物)としてのわんわんではなくて、母であるわたしが「まま」、夫が「ぱぱ」、そして自分が「○○(自分の名前)」だという認識ができてきたということ。

先日、園のクラス編成が進級で一新されたので、4月号のおたよりの裏面にカラーで各クラスの先生が顔写真つきで載っていた。それを見ていたら子が強く興味を示し、就寝前で眠いにもかかわらず、延々とそれぞれの先生の顔を指差してはわたしに先生の名前を呼んでくれとせがんだ。やめようとすると怒って泣く。けっきょく、15分くらいやっていたんじゃなかろうか。写真がそこまで鮮明ではなかったのと、まだそこまでは知恵が発達してないためだろう、「○○先生は?」といって指を指して当たる確率は低かったけど。でも翌朝も、「てんてい」といってそのおたよりを読みたがった。

そんなことがあって、固有の名前があるということがわかってきてるんだなと感じている。自分の昔(っていったって子の過去は1年半しかないのだが)の写真や、鏡を見てもちゃんと「○○」と自分の名前をいうようになって、興味深い。進級の前くらいから、お友達の名前はわかってきましたよ〜と園で聞いていたんだけど、さいきんとくに頻繁に、自分の鼻や胸に手をやって自分の名前を主張しているので、自己への関心、気づきみたいなのが出てきたんだなと思って見ている。

きみには名前がある。お友達にも先生にも名前がある。ひとは一人ひとり、名前があって、違うひとなんだよ。顔も中身も違ってあたりまえなんだよ。そんなことをいま言ってもなんのこっちゃ子にはわからないわけだけど、ゆっくり、知ってほしいと思っている。

「まま」や「ぱぱ」にも固有の名前があることを理解できるのは、いつごろなんだろう。前に、お迎えのあとに駅のあたりで、仕事を終えて帰る先生たちに会ったとき、子は先生たちの顔を凝視しながら状況が理解できないみたいな顔をしていた。先生たちが笑いながら「私たち、園に住んでるんじゃないんだよ〜」と言ってはじめて、そうか、子にとっては園で会う先生が先生のすべてなんだ、とわかった。自分と接していない時間にも、そのひとの世界があること。自分にとってのぱぱやままにも、世界があること。そういうことを理解する瞬間に、私は気づくことができるかなぁ。

過去ブログ:子どもと世界(タロー1歳5カ月)

おかあさんといっしょ」の洋服をたたむコーナーを見ながら練習してるんだぜ。

1歳5カ月になり、園のクラスもおととい進級。初日、ひとりだけ前のクラスからの持ち上がりの先生にしがみつくようにしていたので、なんか違うと感じてるのかしらん?と思いきや、お迎え時にきくと「いや~前からこのクラスにいたよ!って顔してました笑」といわれたw

「あめ」「あわ」「かぎ」など単語をいろいろ言うようになり、絵本でも効果音や動作をまねしたり赤ちゃんが出てくるところで泣きまねをしたりと、いろいろな情報があたまのなかで組み立てられてちゃんと像を結ぶようになってきているのがわかる。

Eテレもつければ楽しく見てるけど、いちばんのエンタメは絵本のようで、自分で選んで持ってくる。絵本の主人公と同じことをして共感するというか、ぼくもできるという喜びと、もうひとつは絵本で見た月や電車がリアルな世界にもある、あれのことなんだという発見という2つがあるようだ。

絵本を通して、世界をいま知っている最中なのだと、絵本に熱中するようすを見て実感する。世界と、そこにおける自分。まだ点と点なんだけど、電車の絵を見て「ブーン!ブーン!」といえる自分は世界を知っているんだ、という手ごたえを子はちいさいながら感じているのだなあ。

ひるがえって、能力的にカエルの子はカエルなのは前提として、それでもどうやって生きる力をつけてやれるのか、ということを最近考えている。生きる力というのは、心と体の健康がひとつ。もうひとつは教養、ひいては稼ぐ力というのかな。自分の力で社会とわたりあえること。

そしてこの子が大人になるころ(というかすでにいま)、その「教養」には「英語が使える」ことが必ず含まれるなとひしひしと感じている。

では日本に住んで、英語が日常にない家庭で、どうやって身につければいいのかな。こつこつ習い事と、やはり留学か。ほら、わたし英語できないじゃん(誰向け?)。言葉を扱う仕事をしているから、英語ができないということはすなわちこのさき国内ででしか仕事できないってことで、逆に、英語さえできれば相当応用できたはずだなと考える。若いころはそんな見通しも立たなかったし、そのとき向き合っていたものを放り投げて無目的に英語しゃべれるようになりたい!だけで突っ走ることもできなかったが。

私が10代のころ、親に留学を勧められたこともあったと思う。でも耳を貸さなかったし真剣に考えていなかった。というかそのときの1分1秒にもうおぼれそうになっていたので、先のことなんか考えられなかった。別に英語のことに限らず、なにかに熱中することを阻害せずにでも先のことを考えられるような、そういう余裕を持てるように、フォローするのがひとつ必要なのかもしれない。

ふむ。絵本に戻ると、最近買ってしばらくはまっていたのは『だるまさんの』。とある遊び場で見つけて気に入ったようすだったので。

だるまさんの (かがくいひろしのファーストブック)

だるまさんの (かがくいひろしのファーストブック)

 

あと、この「絵本ナビ」というサイトで見つけて、絵がかわいかった「しーっ」。さいごにうさぎの赤ちゃんが出てくるところで、顔をくしゃっとさせて「エ、エ、エ」と泣きまねをします。

www.ehonnavi.net

月齢、年齢が進むにしたがって、だんだん高度な感情を扱うものを好むようになるのだろう。あと、おさがりでもらった恐竜の図鑑や、動物の解説本なんかも好きみたい。いろんな種類があるっていうことに興味を持つというのもまた興味深いなー。