ふりにじ。

フリーランス2児の母が、編集ライターをしながら考えたり試したりするブログ

Webメディア「She is」の公募コラムを書いてみた。テーマは「ははとむすめ」

先日立ち上げられた「She is」というWebメディアがあるんですけど(運営はCINRA)、そこがこれから毎月コラムを公募していくということで、創作のようなそうでないような文章を書いてみた。テーマは「ははとむすめ」。

ま、本サイトへの掲載は落ちたのですがw、ブログなどに掲載は可とのことで載せておく。作家の川上未映子さんが参加していたことで注目したサイト。今後も毎月のテーマを決めて公募するというので、また応募してみようかなー。

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Birds

娘は生まれなかった

お腹にいるのが「次男」だとわかって、わたしはほっとした。年齢もあるし、子どもは2人と思っていたから、これでわたしが娘をもつ可能性はかぎりなくゼロになった。

小さいときから、大家族に嫁いできた母が、けっして快適な状況ではないことを感じていた。わたしたちにはいつも明るく、十分に愛情をかけてくれたけど、わたしは気がついたら緩衝剤の役についていた。最初の記憶は幼稚園のころだ。別の家族の部屋で兄弟たちがテレビをみていても、わたしは行かない。呼んできて、という頼みをきく役目があるから。

母は、わたしに家事をさせたがらなかった。大家族の台所の片付けは、いくつもの鍋を入れて1時間はかかる。音がひびくと、うたたねしている母が起きるから、1枚1枚しずかに皿を洗う。時計は12時をまわろうとしている。娘として母を感じるほど、家の中の母を含めた女たちのふるまいと、それぞれがわたしだけに語る言葉は、わたしを揺さぶった。

表面的には一丁前のツラをしていても、自我も未来もまわりとの関係もすべてが昆虫のさなぎの内部のように内側でどろどろとうずまいている10代のときにわたしは、やっぱりどこか、折り合いがつかなかったのだと思う。足下で薄氷の割れる音が絶えず聴こえるような日々を抜けるには、時間がかかった。

複雑な人間関係は、わたしをおびやかす。だからさなぎを経てわたしは、いっさいの複雑さを無視する大人になった。結果、組織の中ではうまく生きていけなくて、いまはひとりで仕事をしている。それはわたしに合っている。

結婚というイベントを経ても、年に2回くらいしか顔を出さなかった実家には、子どもができた今や月1以上のペースで寄るようになった。わたしの子どもをかわいがる母や父の姿を、とってもふしぎな気持ちでみる。20代や30代だった彼らと、あやされるわたし。端からはなんの問題もないように見えて、事情も感情もこんがらがってほどけない中で大人はバランスをとっていた、その狭間にひとり子どもが落ちていったこと。この家の誰もそれに気付かなかったことを。まるでなかったかのように、30年前と同じ箱の中で、きゃっきゃとはしゃぐわたしのかわいい息子たちをながめる。

長男は男の子と女の子の差に気付きはじめて、男の子はブルー、女の子はピンク、男の子はかっこいい、女の子はかわいい、などという。そのたびにわたしは、そんなことはないよ、きみはかわいいし、かっこいい女の子もいるよと諭す。

でも、諭しながら思う。女の子だからっていう発想から自由になれないのはわたしだと。ごっこ遊びが好きで、人のやることなすことをよく見ていて、その機微を感じ取ることに長けた“女の子”。そんな娘がもしわたしにいたら、息子と同じように愛せるはずだ。永遠にわたし専用だと思って結婚した夫がその女の子にほおずりをし、目を細めて成長を喜んだら、わたしも一緒に喜べるはずだ。

それをたしかめて、そして「なんだ杞憂だったじゃないか」と笑い飛ばす術は、娘を生むしかない。まるで、ばくちだ。自分にとっても、その娘にとっても。だから「長男だ」「次男だ」とわかったときの安堵感は、ばくちを避けられた安堵感だった。同時に、しぬまで、母とわたしの関係とそのまわりにあった名前のつかない空気を、母になったわたしと娘でこたえあわせすることはなくなった。

この先も、姪っ子や友人の娘たちの成長に触れるたび、なかった未来を考えることがあるかもしれない。そのことに意味があるかもわからないけど、立ち止まりながら、毎日毎日大きくなる息子たちに目をかけていく。 

「1文字いくら?」の衝撃と、量り売りではなく価値を返しているんだという話。

今月もばたばたと過ごしています。

次男が夜、ちゃんと布団で横になって寝るようになったのはいいものの、その分「あ、この仕事は夜中できる…」という思考になってしまって立て込んでいる現状。そしてときによっては10分おきくらいに「…ふぇ、ふぇぇ、ビエェェー!!」と泣いて起きる次男

ふぇぇ、くらいで駆け寄ってとんとんするとまた寝るので、そこで完結させたいんですよ! なので仕事や家事の手を止めて駆け寄る、そんな夜中もあります。

1文字に値段はつくのか

昔の話ですけど、たまたま取材で知り合った小さい会社に、自社サイトをしっかり構築したいので文章づくりを手伝ってくれないか、と話をされたことがある。

いろいろ話して、あ、公式サイトの文章というのはコピーライティングだな、伝えたいことをごく端的な言葉に凝縮して提示する必要があるんだな、と気付かされた。自分の普段やってる記事原稿とは違う能力が必要だな、と。

たぶんできるかなと思って、最後にフィーの話になったら「で、1文字いくらでしょうか?」といわれたんですよ。これ、相手には悪気はたぶんないんだけど、鳩が豆鉄砲を食らったような顔にわたしはなったと思います。

仮に、企業理念のページに、キャッチ1本×400w程度の解説を3本立てるとすると、ざっくりわたしが原稿を引き受けているような金額ベースだと、1-2万にしかならない。でも、その言葉を紡ぎ出すためにかかる時間と労力は、記事1本書くよりもかなり多いはず。

結局、その場では、その誤解というかボタンの掛け違いをうまく説明できなかった。そして、この仕事は向こうの進行とわたしの産休が重なってしまって、わたしが引き受けることはなかった。その後どうなったかしらん。

仕事の成果は測りにくい

で、最近、1文字とはいわれなかったが同じようなことをいわれて、上記のできごとを思い出した。わたしも普段、聞かれたら、ざっくり何千字の記事でこのくらいでお引き受けしていますと答えてるけど、それは文字量しかわかりやすい尺がないからそういっているだけで、正直、適切とは思ってない。

もちろん4000w原稿と1万字原稿はかかる時間も違うけど、そもそも話の深さが違うので、下調べとか含めて必要な執筆時間とか、そもそも自分に対応できるのかということにもなってくるので、フィーというよりむしろそれらの見極めに必要なんだよな。

こういう仕事は、時間でも測りにくい。速い人ならたぶん1時間インタビューを1時間で書けるのかもしれないけど、この業界に限っては、どれだけうまい人が1時間で仕上げたインタビューよりもわたしが半日かけて仕上げるほうがたぶんいい仕上がりだと思う。し、発注側としても安く発注しても結局自分が直さないといけないなら、直しがないのは大前提で、その上で速くて安い人に頼みたいはず。

結局、文字数はあくまで目安で、それでその案件にかかる時間と労力と、なにより大事な自分のそれまでの知見を測ることはできない。その逆方向の究極が、クラウドソーシングにあるような、1文字いくらの世界なんだと思う(あれはあれでわかりやすし、需要と供給が合っているとは思う)。

結局、何を売っているのか

なので、こないだ「1文字〜」に近いことをいわれて、はっとしたのです。その人たちは、気付いてないと思うけど、丁寧なものいいをしていても、発注先を一律にしてしかみていない。そういう人たちは往々にして、この話し合いをしている1時間がフリーランスにとっていくらの単価なのか、ということもみえていない。

それをモヤモヤ考えていて、わたしは文字を量り売りしてるんじゃなくて、価値を返している(返そうとしている)んだとわかった。その価値に値段をつけて売ってるし、その価値を認めてくれる人と仕事がしたい。量り売りの文章を買いたいなら、そういう人と仕事をしてもらえれば、双方幸せだろうと思う。

ぶっちゃけ、2000wでも4000wでも、当たり前だけど総動員する知見のベースは同じだし、かかる時間もむしろ2000wのほうがぎゅっと凝縮するから大変なくらい。そこは論点ではなくて、ただ出し先のフォーマットに合わせてるだけで。

デザインにしてもイラストにしても、同じだろうなぁ。特にPRなんかはメディアパブリシティの獲得は保証できないから、難しいよな。というわけで、深夜のフリーランスあるあるを書いてみました。では仕事に戻ります。

 

 

コミュニケーションにおいて「言葉」ってどれくらい重要なんだろう。(ジロー1歳2カ月)

※この文章は約3分で読めます!

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着られなくなったジローの服をやっと整理して、友人のベビくんにお下がり。ああ、この服はタローも着た!この服も思い入れが! ←断捨離できないやつ。

子どもが布団で寝てくれるって至福。

次男ジローが満1歳になって、急にラクになった。それは、夜ちゃんとジローが布団で寝られるようになったことが大きい。いままでは本当に、抱っこ寝から布団に置こうものなら背中スイッチ即発動の子で、生まれて1カ月間こそ「ぼくって生まれたんだっけ?」みたいな感じで寝たり起きたりしてたけど、それ以降は1歳まで330日のうち300日は抱っこのままソファーにもたれて朝を迎えていたような気がする。

保育園でのお昼寝は、2.5時間もしっかり布団で寝ているらしいのに。抱っこもどんどん重くなるから、睡眠不足に加えて重力という体の負担に正直かなり限界だった。

それが1歳になったとたん、抱っこで寝たら布団にそのまま降ろして2-3時間起きずに寝るように! その時間は徐々に増え、1歳2カ月になったいまは、朝までとはいかないが5-6時間連続して寝るようにー!! 神様…。

夜の時間を使えるというのは至福である。寝オチだけがトラップだが、ジローを置いて、一人でごはんも食べられるしビールも飲める(あ、1歳を機に卒乳もしたんでいまもうアル中手前…あ、いや…)。

けどそれ以上に、つい「夜も夜中も仕事ができる…!」と思ってしまって、それが仕事を呼んでるんだかわからんがとにかく9月以降は輪をかけていそがしくなってしまった。というか、仕事を、あ、この1件はあれとあれが夜できれば引き受けられる…と思っちゃうからだな。これはもうちょっとなんとかしないといかん…。

意思疎通に言葉は必要なのか

でね。1歳ちょっとまえに、わたしのことは呼べるようになっていたジロー。といっても、「ア”ア”〜ギャアア”〜ママ〜!!」と、泣いてる最中にw いや、ちゃんとしっかりいってるって。泣いてわたしを呼んでるんだって。ちなみに泣いてないときに発せられたことはないです。え? いや、いってるって。

次に意識的に発した言葉は、絵本「いないいないばあ」のセリフ「ばあっ!」。

いないいないばあ (松谷みよ子 あかちゃんの本)

いないいないばあ (松谷みよ子 あかちゃんの本)

 

ねこやくまが、いないいないばあをしてくれるんですよ。大ベストセラー。最初に、保育園で「ばあっ!っていってます!」と聞いて、うちでも試したがもったいぶってたのでぐぬぬと思っていたのですが、いまやばあばあいっててかわいい。自分の顔でいないいない「ばあっ!」もするよ。

つぎが、「わわ(わんわん)」。これも絵本で覚えました。いまでは外で会ったワンコも「わわ」と指差す。

あとは喃語だけど、腕を突き出して人差し指を立て、それを左右に振りながら「コトコト〜、コートコトコト〜」と発声する。あれみたい、金属の棒を両手に持って歩くと地下水や鉱脈のある場所で振れるという、ダウジングみたいな仕草をする。

その「コトコト」の「コ」は、ちゃんとした「KO」の発音ではなくて、ダースベイダーの呼吸音みたいなの。

これがおもしろくって、長男タローと二人で真似して指を振りながら「コトコト〜コートコトコト〜」というと、ジローもよろこんでまたやる。指と指でツンとしてやるとなおよろこぶ。3人で、宇宙人みたいなナゾの交流をしている。

わかる言語をまったく介してないんだけど、明らかに、意思疎通をしている。これって考えてみれば言葉の通じない犬やネコとも一緒に暮らしていると同じで、仕草や鳴き声でうれしいとかイヤだとか伝えてるんだよな。

イヤなのもはっきりしてて、タローにおもちゃを取られたりすると「アッ!」と威嚇の発声みたいなのを出す。ジローなかなか我が強そう。コトコト〜。

言葉にならない気持ちを見落とさないように

意思疎通に言葉は必要か、というならそりゃ高度なコミュニケーションには必要なんだけど、ああ、少なくとも感情の共有には言葉は要らないんだよなと思わされる。笑顔とか、頭を撫でるとか、抱きしめるとか。

タローはよくしゃべるし、わたしの返しにまた深く質問してきたりするから興味深くて、ついさらに倍くらい返してしまう。いろんなことを、説明したくなる。やり取りがもうすっかり言葉に頼りがちだ。

でもこないだ、ジローをゆらゆら抱っこで寝かしつけたあと「タローも抱っこして、立っちして(わたしが)、ゆらゆらしてねんねしたい!」ときわめて具体的に要望を出されたときには、ああここまで説明させてしまって悪い、ごめんという気になった。

言葉をかけすぎて、言葉になってない気持ちを見落としているのかもしれないと反省した。言葉も大事だけど、万能じゃないし、すべてを満たせない。わたしは理屈っぽいので、たとえば夫に「いわなくてもわかってよ!」と思うことはほとんどないし(ゼロではないがw)、大人同士なら言えよと思うけど、子どもにそれを求めすぎてはいけないな。

たくさんたくさんしゃべるタローの隣りで、ひとつ、ふたつと言葉を覚えていくジロー。いくつめまで単語を拾っていけるだろうか。

保育参観&保育参加。彼らは彼らの時間軸で生きている(タロー3歳11カ月・ジロー1歳1カ月)

※この文章はすぐ読めます!

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2回目のキドキドを堪能するジロー。

9月から10月にかけて、あまりにも忙しすぎて、まったくブログまで手がつかなかった…。もっとサクッと書いてサクッとアップしていきたい。のだよー。

本日はAM、保育参観&保育参加がありました。参観は、0歳児クラスをこっそり見る。参加は、幼児クラスはもう隠れて見てもバレてしまうのでw、堂々と保育に参加するわけであります。

まず、ホールで遊ぶ0歳児クラスを隣室からのぞく。赤ちゃんはあまり視力がよくないそうなんで、バレないだろうけど、隠れて小窓から見てたので中腰と首がツラかったw

1歳1カ月になったジロー。お椀にスポンジボールを入れて、おもちゃのおたまで一生懸命すくおうとしていた。おともだちとちょっと奪い合い手前になってみたり、テラスへの窓が開いたらそっちに向かってみたり、ピアノに合わせて先生が「大きな栗の木の下で」とかの手の振りをするとそれをじーっと見て、からだを弾ませて喜んでいた。

ときどき、それぞれの先生によじのぼるようにしたり、まとめた髪をさわったりと、甘えていた。のびのびしている姿を見られたのがいちばんうれしかった。朝預けるときに泣くってこともめったにない子だけど、昼間も、まあ少なくとも遊びに集中しているときは特にわたしのことなど思い出しもしないんだろう。よし、よし。ちょっとさびしいが。

30-40分眺めてから、タローのクラスへ。わたしが来たのはわかってたので、待っていたようだ。一緒に砂場で遊んだり、室内に戻ってからはパズルをしたりした。ああ、ここ最近を振り返ると、わたしがジロー担当だったからどこかに出かけてもタローと1対1で遊ぶことってなかったな〜、と思った。たくさん、見逃している瞬間があるんだろうなぁ。

お着替えも自分でしっかりできて、ドヤ顔。多少なりともわたしが来てうれしかったようで、テンション高く遊んでいた、気がする。いつもの感じなのかなw

お昼ごはんの前に保育参加の時間は終わりになり、わたしは仕事へ向かいました。ごはん食べるところとかも見たかったなぁ。うちよりもしっかり食べてるのかしらん。うちだと「た〜べ〜させて〜」が常なのだが…。

保育参観はこれまでも参加してるけど、あらためて、平日離れてる間も子どもは子どもでちゃんと充実した時間を過ごしているんだとわかったし、あらためて、別々の時間を生きてる個別の人間なんだな、ということも実感した。

自分がそろそろ人生折り返しに差し掛かってるのと、スマホの活用やAIだとかのテクノロジーが仕事にも身近なので、最近よく、近未来のことを考える。2100年、タローは87歳、ジローは84歳。そのときのスマホ的な機器を使えているかはわからんが、どういう未来をみているんだろう。いまはこんなにわたしに頼りきりの彼らが、わたしがいなくなった世界でもそれぞれの時間軸を生きていくということが、とっても不思議な感じに思えるのです。

あっ。頼りきりっていってもこうして保育園の先生方にお世話になりっぱなしだし、わたしの実家にもいろいろサポートしてもらってるんだった…子育ては、父母だけではとてもできない。ほんとうに。みんなの時間と手間と愛情をもらって2100年まで生きる力をつけてくれよな。

持ち場を決めないと、夫婦というチームも真価を発揮できない。

※この文章は3分で読めます。

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長男タローが保育園でハマっていたLaQを我が家に導入。いろいろつくってます。これわたしが子どものときはなかったので、おもしろい。

秋の風が吹き始め、次男ジローが無事1歳になった。そのことはまた改めてじっくり書きたいのですけど、たまたま先週会った知人女性が「朝からダンナとバトルして!!」と言っていて考えたことを。

育児の分担で口論になったらしい。トモさんちはどうですか?!といわれたんで、いやーうちは夫がなんでもやってくれるので・・わたしがいうのもなんですがモゴモゴ、と答えたわけでw

なぜダンナとバトルになるのか?

なんも有効なアドバイスができなかったな〜と思ってその後すこし考えてたんですけど、これはたぶん、彼女のおうちが両方会社員で年齢も同じくらいで、仕事の比重がまったく対等だと考えているからかなと思った。

親しい友人ってわけじゃないので、詳しいことは知らないし聞かないけど、一般論として。会社員で稼ぎも同じくらいだったら、家事も育児も半々にしてよ!と思うのかもしれない。

わたしの場合、こっちがフリーランスなんで、先月と今月で収入が2倍違う・・ってほどはなかなかないけど、1.5倍くらいは普通に増減がある。いまは順調でも、この先はわからない。だから、自分がもしも大黒柱になってねといわれたら、ううーむ子ども2人かかえてやっていけるかしら、といささか不安になると思う。

軸足の置き方はイコールじゃない

なので、家庭の収入を支える責任者は、会社員である夫、よろしく頼みます、と思っている。いまのところ。自分の稼ぎは家のボーナスみたいなもんで、食費とかは買い物するのがわたしなんで面倒だから出してるけど、それ以外はお小遣い含め自分に関する費用と、あとは余剰費くらいに捉えている。

その代わり、家事育児の第一責任者はわたし。ココを代えられたら、とくに冷蔵庫の管理とか子どもの服やら持ち物の管理とか、わたしの大の苦手な管理片付け系の第一ハンドラーをお願いできたらなんてラクだろう!!とは思うんだけど、大黒柱と代われないし、物理的に夫は毎日出勤してたまに夜の付き合いもあってとなると、やはり家のことはわたしがやるのがリーズナブルなのです。

(できてないけど!服の管理とか!うわーん冬がきてしまう・・)

もちろん、なんでも言い合えるし立場の上下はないという点では対等だけど、バランスが違うという点でイコールじゃないってことかな。もちろん、あんまり仕事が立て込むと「わたしも働いてるのに!!」」と思ったりもするけど、それはフリーという特性上、仕事を詰め込んだ責任が自分にあるのでね・・。自分で減らせばいいだけなので。なので、家事も育児も、やってくれたらありがとうという気持ちになる。

イーブンでいくか、責任の分担を前提にするか

一方で、忙しすぎてわたしが「やっぱり仕事を減らすしかないのかな・・」とこぼしても、夫は明確な返答はしない。体の心配はしてくれるけど、基本的には向こうも「稼いでくれてありがとう」と思ってるのかもしれない。増減激しいフリーの収入でも、もちろんお互いに共働きの安心感はあるから。

まあそんなこんなは、会社員同士だってお互い納得していればいいわけで、夫婦の数だけ正解があるのだろうけど。話戻って「対等なのに!」と思っていることが、不満の発端なのかな〜と思ったのです。

そこでどういう策があるのかなというと、ひとつは、対等なんだという前提を変えずに話し合うこと。納得いくまで、家事育児の分担を決めること。

でもどうしても、まだまだ男性は「お迎えがありますから」と定時退社ができないとか、そういう社会的な事情があるからなぁ。そこは早く変わってほしいし、ボトムアップじゃないけど、個人の働きかけから変わっていく部分も大きいんだろうなとも思う。

チームの中で各人が能力を発揮するには

もうひとつは、そもそも対等じゃないんだと線引きをし直すこと。仕事量や働く時間を調整できるフリーと違って、会社員同士だともちろん仕事の重きや働き方の融通が同じだと難しいところがあるとは思うけど、大黒柱はそっちがお願い、と思うだけですこし気がラクになるんじゃないかと思う。

仕事でもそうだけど、自分の責任の範囲と持ち場をはっきりさせない限り、能力を最大限発揮できない。夫婦って最小単位のチームだと考えると、あながち、分担をはっきりさせるのは必要な気がしてきた。

まあ、最終的には、こっそり自分のお小遣いを多くするとか、たまに大きい買い物しちゃうとか、そういうことですっきりする気がするw オチがそれかいって感じですけど。んー、わたしは不満はないけど、カルティエの指輪とかほしい(バブリーかっ)。

 

仕事と結婚と子ども。状況が同時でも、軸足を置く時期は違っていい。

たまたま読んだ記事をRTしたら、わたしにしてはとても多くRTされ、みんなこのあたりに関心があるんだなぁと思った。

読んだ記事は、専業主婦を経て47歳で再就職し、現在は五つ星ホテルの幹部を務める薄井シンシアさんのインタビューです。

このかたは別のなにかの記事で知ってたんだけど、こんなにがっつりした記事じゃなかった。この前後編でわたしがいちばん印象的だったのは、後編のこの文章でした。

私、今になってわかったことがひとつあるんです。仕事、結婚、子ども。女性は手に入れようと思ったら、これらの全てを手に入れることはできる。ただ、同時じゃないんです。

ワーママは「よくばり」なのかな?

わたしは直接いわれたことはないけど、仕事も結婚も子どもも、同時並行でこなしている(こなさざるを得ない)ワーママに対して、「子どもは生みたくて生んだんでしょ」「だから大変でも当たり前でしょ」みたいな風潮があることを感じています。

こないだの、国会議員が子どもの保育園の送迎に公用車つかうな!というのも、そういう考えが根底にあるよね。

仕事をするとか、子どもをもつとか、そういうのはたしかに個人の希望であり判断であって、別に「わたしは日本の少子高齢化に貢献するために子どもを生みました!」なんて人はひとりもいないだろう。だから、「社会のためなんだから子どもがいることで迷惑かけてもいいじゃないか!」と開き直ってる人なんていない。

だからいつも、ベビーカーで電車に乗るとき、子どもが泣くとき、どこか肩身が狭い。すいません、という気持ちになる。わたしはフリーランスだし、在宅対応できるものが中心だから、子どものことで欠勤するときに職場に肩身が狭いという気遣いはあまりない(そのかわり昼間がつぶれたら徹夜作業は発生する…)。でも去年長男がインフルエンザにかかり、さすがに実家にもお願いできなかったときは、1件仕事をキャンセルしてしまった。自分がインタビュアーの予定だったから、迷惑をかけてしまった。

それはもちろん褒められたことじゃないけど、ああ会社員の人はこういう出来事や気持ちが日常茶飯事なんだなと実感したし、どこかで、家事はともかく育児と仕事を両立するのってやっぱり物理的にキツいと思い始めていた。だから、シンシアさんの「同時じゃない」「それでいい」という発想はすごく新鮮だった。

もちろん、それは今のわたしには適用されないわけで、現状で働き続ける以上は「仕事と結婚と子ども」を同時に得ている状態なんだけど、なんか軸足の置き方を時期によってずらせばいいのだと教えてもらった気持ちになった。

仕事はするけど、5時に終わらせるのは「わたしの希望」なんだ

男の人は、うーん育児のメイン担当を妻に任せている男の人は、仕事も結婚も子どもも同時に難なく手に入る。なんなら残業したあとに同僚と飲みに行って子ども自慢もできるんだろう。おお、そう書くと、なんだそれ?!ふざけんなーという気になるw

でもそこをうらやんでも仕方なくて、夫と自分とのあいだで「自分が育児のメイン担当なのだ」となったらば、とりあえず子どもの都合と状態にすべてを合わせていくしかない。

夫の職場も「熱でお迎えで…」みたいなことに寛容で、夫婦間分担がイーブンな人は別として。でもだいたいが、ママが都合をつけてるんじゃないかなぁ。そうすると子どもも普段接触が長い人によりなつくから、寝るときはママじゃないとダメ!みたいな状況に加速度的になっていく(我が家がまさにそれ…)。

いまわたしが犠牲にしているもの…犠牲というか、物理的にできてないのは、夜に子ナシで友人と出かけること。夫と2人でゆっくり飲んだりすること。残業。

それに対してもモヤモヤしてたんだけど、あ、今の時期は、軸足は子どもなんだからと思ったら腑に落ちた。今の時期は。結婚というのを家庭を回すこと(家事)や夫との生活をいうなら、それはまあさておいて、仕事も子どもも全部全力投球しなければとどこかで自分も思っていたんだと気付かされた。

子どもはどんどん手を離れていく。0歳から1歳の間だって、ハイハイができ、喃語で気持ちを訴えるようになり、もうどんどん離れていくのを感じる。だから仕事は、もちろん責任はあるけど、フリーランスに必要な生き方としても自分の性質としても「この仕事もあの仕事も断りたくない」とつい思ってしまうのをちょっと立ち止まって、今は何が軸足なんだったっけと考え直すのも大事かなと思った。

今だけ、今だけなんだから。子どもらの人生にとって、今がものすごくわたしが必要な時期で、そのニーズはどんどん減っていってしまうのだ。だから軸足はこっちでいいんだと、すごく腑に落ちた。

採用する側ももっと「正しい目」を持ってほしい

もうひとつ、この記事を読んでこれが問題だなと思ったのは、シンシアさん自身が話されていた「専業主婦の経験は『キャリア』と見なされなかった」ということ。

主婦って意外と大変でして。全然ちゃんとできてないわたしがいいますがw

掃除とか家を整えること、毎食の献立の買い物とかバランス、もちろんいちばん手がかかる育児も、ちゃんとやろうと思ったら「あーこれは“専業”じゃないとできないわ!」とこの数年で実感した。

そのスキルってじつはすごく高くて、実際にこの数年でわたしは仕事のほうの生産性もめきめきあがっている。料理もやればやるだけ段取りがよくなってるし。

でもね、そういう家庭にまつわる業務の内容を、すべてを専業主婦の奥さんに任せてきた50代総務部長男性とかはたぶんまったく実感できない。だから、専業主婦としてブランクがあった上での再就職が難しいのか〜と、記事を読んで思った。

まあ、もうそういう組織は、前時代においてくしかないかもね。どんどん世代は変わっていくから、多様な働き方と価値観をもって自分の道をいっしょうけんめい模索している女性たちの状況と気持ちをわかって、資格とか経歴では見えない本当のその人の価値を正しく高く見積れる人が、採用側にもどんどん増えていくだろう。そうすれば、もっと働きやすくなるはず。

子どもが小さいからと、すごく能力があるのに専業主婦になっている友人たちのことを、どこかで「もったいないな」と思っていた。今考えると本当に超余計なお世話なんだけど、「知り合いがこんな人を募集しているよ?」と教えたりもした。でも、よかったんだ、彼女がそのとき力を入れようとしていた、入れたかったのは子どもだったんだから。

実際、彼女は子どもが小学生目前になって、週3くらいで働き始めたそう。応援したい。

どんな生き方もあっていいし、その生き方の中でどんな技能と経験を積んできたのかを正しくみてくれる社会になったらいい。な、と思った次第です。

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シンシアさん、7月に本を出されているそうです。今度本屋でみてみよう。

専業主婦が就職するまでにやっておくべき8つのこと

専業主婦が就職するまでにやっておくべき8つのこと

 

 

がんばることの大切さと、がんばらなくてもいいという安心の両方を知ってもらうには。(タロー3歳9カ月)

※この文章は2分で読めます。

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こないだ深海展のワークショップに当選して、ダイオウイカをつくったよ! ホタルイカサイズw

ふと思ったことを。

わたしは割と、がんばることが得意です。粘り強く、あきらめない。要領わるい選手権があったら上位に入る自信がありますが、はたから見て愚直に映っても、信じたことをやり抜ける。まあ、見方を変えれば頑固ともいうw。

今は、そういう努力の先にちゃんとリターンがあるとわかっているからがんばれる部分も大きいんだけど、子どものときからそういう気質だったし、その根本にあるのは負けず嫌いってことなんだと思う。ここで引いたら、悔しい。誰かにというよりも、自分に負ける気がする。それを甘んじて享受できない。

わたしは長子で、なまじちょっと勉強もできたから特に父親の期待が大きくて、そのなんだろう理想の幻に負けたくないみたいなところも、今考えればあったと思う。

でもときどき、自分の「がんばっちゃう気質」に押しつぶされそうになってここまで生きてきた。特に20代後半の、膨大な仕事にのまれそうになりながら自分の無能さと無駄に格闘していたころはひどくて、アトピーとかも悪化してて。

そんなにがんばらなくてもいいよ、とはいわれたくないんです、自分を否定されるみたいで。でも、どこかでそういう“そのままで大丈夫”感を得ないと文字どおりしにそうだった。そこで「がんばらなくていい」と決していわずに支えてくれたのが今の夫なわけですが。なんなの?神?

さておき、タロー3歳は絶賛イヤイヤ期なわけですが、2歳のときから通ってたリトミックをイヤがるようになってきたのですよ。当初は音楽に合わせて体を揺らしたり踊ったりするのが好きだったので行かせてたのだが、少し心が発達して個性が出てきたら、どうも皆でなにかするっていうのが好きじゃない部分が出てきたみたい。

あれっ!その性質、知ってる〜!わたしみたいだねwww

なので、続けなさいともいえず。

そういえば、こないだ試しに行ってみたキッザニアも、親と離れるのが不安というのもあったようだが、明確に「服(制服)を着たくない」といってガン拒否していた。

あれっ!それも知ってる〜!わたしみた(ry

なんだろう、まだ4歳手前だしたかが習い事やレジャーだし、イヤなものをやらせることもないと思うんですよ。でも、昨日は昨日で園でちょっとした新しいアクティビティーがあったのを最初は「イヤだ・・風邪気味だから(意味不明)」とゴネてたが、先生いわく「たぶん皆がやり出したらタローくんもノってくると思います!」とのことで、結局迎えに行ったら「誰よりもノリノリで『やめたくない!』といってました(笑)」とのこと。お、おまえってやつは。

なので、イヤイヤを全部きいていたら、何も続かない何もやり抜けない子になってしまうのではないか。本当は楽しかったり得るものが大きかったりするかもしれない機会を逃してしまうのではないか。上のできごともそうだし、乏しいヒレでいっしょうけんめい水を掻いて練習を重ねて皆とレースをするニモの絵本などを読むにつけ、そんなふうに思う。

その一方で、がんばらなくても大丈夫、がんばらなくたって悪い子だったってなんだってきみが好きなんだ、そのままでいいんだという絶対的なメッセージも伝えたい。そこは特に母親として、いつでもありのままで帰れる場所として、意識してないといけないんじゃないかなとも思う。わたしはつい父親的というか厳しく見てしまいがちなので。

顔も似てるけど、明らかに、性質も遺伝している部分がある。なのでどうしたら、このさき生きにくくならないか、でも親としてむしろ小石を取り除いてやるべきではないのではないか、思案するきょうこのごろです。

オチはない。ただ、自分に似ている・・と思う部分はあまり叱れないってことw