ふりにじ。

フリーランス2児の母が、編集ライターをしながら考えたり試したりするブログ

5歳の仕事観とお金の会話ログ。

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…5歳になる前、こんなことを言っていた長男。

 

以下、週末に話した、5歳児の仕事観とお金について。ちょっと進化したかなw

長男「おかねってどうしたらもらえるの?」

私「働いたらもらえるよ」

長男「ぎんこうから?」

私「いや、会社から。パパはひとつの会社でお仕事してるから、その会社からもらって、ママはいろんな会社とお仕事してるから、それぞれの会社からお仕事のぶんだけもらってる」

長男「かいしゃがおかね持ってるの?」

私「うーん、正確には会社にいっぱいお金があるわけじゃなくって、みんなで会社でひとつのお仕事して、それで誰かがお金を払ってくれて、そのお金を会社のみんなで分けてるんだよ。そのお金を、銀行に預けてるんだよ。だから銀行に行けばお金を引き出せるんだけど、それは本当はママのお金なの。預けてるだけなの」

長男「ふーん…」

(…どうも、物質としてのお金(硬貨や紙幣)と、価値としてのお金がまだわからないようだ。そりゃそうか)

長男「おとなになったら、おしごと、これですよーって、なるの?」

私「?(…あっ、小学生が中学生になって、中学生が高校生になるように、仕事は自動的に決まるって思ってるのかな) お仕事はね、選ぶんだよ。タローが大人になったらね、なにがしたいかなって考えて、自分で決めるんだよ」

長男「?」

私「高校生おわってお仕事する人もいるし、大学生おわってお仕事する人もいるし、大学よりももっと勉強したい人は大学院っていうところに行って、それからお仕事する人もいるよ」

長男「ママも、おしごと、さがしたの? どこにいきたいかなーって?」

私「そうだよ。パパもママも、自分でどういうお仕事したいかなーって、お仕事探したんだよ」

長男「それで、ここがいいなーって、決めたの?」

私「そうだよ(もともとは会社員だったし)」

長男「やさしそうな人たちだなーって?」

私「?(…あ、同僚のことを言ってるのか。まだ、何がしたいかとか何が得意かとか仕事に活かせるかとかはわかんないけど、みんなで一緒に仕事するってことのほうはわかるんだ!) そうだよ! やさしそうな人たちだなって、思ったよ。だって年末にタコ焼きパーティーしてパパとママとお仕事してた人たち、おうちに来るでしょ?」

長男「!」

長男「また、たこ焼きリーダー、あいたいな!」

…まさかのタコパオチでしたけど!! 願わくば、きみがすてきな人たちに囲まれて、たのしく仕事ができますように。

今年取り戻したものは、音楽でした。

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なんと驚くことに、もう12月31日だって。

本当に本当に飛ぶように日が過ぎて、っていうか自分が吹き飛ばされてしまいそうな、忙しさという暴風雨のなかにいるような1年だった。このブログも最後に書いたの1月の一度きりって。

いま、夫実家に帰省しながら、繁華街のプロントでひとりビールを飲みながらpcを広げている。夫が昼間、マッサージに行っている間にわたしは子2人のめんどうをみていましたので、交替したのです。夜のしたくは・・・なにもしてませーん。すいません。

 

今年取り戻したものは、音楽でした。

そう書くと、いろんなものを失って失ってつらいなかで、取り戻したみたいな印象になってしまうけど、なんかもう、仕事しながら4歳1歳 growing to 5歳2歳男児を育てるって毎日がめちゃくちゃで。今年、幸せだったかと聞かれれば幸せだったけど、つらくなかったかと聞かれればまったくもって首を縦に振れない。つらかった。そのだいたいが自業自得だと思えてしまうのもまた、つらかった。

 

ひとことでいうと、仕事を受けすぎた。働きすぎた。自分の仕事量を自分で決められるというフリーランスの利点がなんか裏目にのみ出たという、あっ、毎年そうなんだけど、今年はまた去年をうわまわるおもしろい案件に次々と声をかけてもらい、たくさん徹夜した。

新江ノ島水族館のお泊まり企画に当たって、当時4歳タローと一緒に参加し、みなさまが寝袋で寝静まるエイやイワシがゆうゆうと泳ぐ大水槽の前でpcをひらいて原稿を書いたのもいい思い出です。その原稿は、SDGsとか事業と社会貢献の両立みたいなテーマで、先日出版された書籍に収められた。うれしい。

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このね、うれしさ。毎年、もう手作業の仕事はこの量が限界だと思ってるんだけど、毎年突破してしまう。また、わりと目に見える数字があるとやる気になるタイプなんだが、フリーランスだと働けば働くほど年収に跳ね返るから、それもまたみずからを馬車馬化させてしまう要因でな。

毎日100回くらい、もっとセーブしなければ、でもおもしろい、断りたくない、でももっとセーブしなければ部屋も片付いてないし疲労もたまってるし何よりイライラして子に怒鳴っちゃうし、でもおもしろいし、という無限ループにはまっていた気がする。

けっきょく、結論は、やっぱりものづくりが好きなんだな。能力的にもディレクターとかプロデューサー的な立場になれないっていうのもあるけど、手作業でものがつくられていく、制作の人間なんだと思う。これは来年もう少し考えていきたい。

 

で、そんなこんなの嵐のなか、あまりにも息抜きの時間がないので、これまで仕事中は音楽を聴いていなかったんだけど、ドラマ「アンナチュラル」をきっかけに米津玄師にはまりましてね。十数年ぶり?くらいにCDを買いました、「Lemon」の。なんて、ミーハーな、今年の流行に乗っているんでしょうか。

彼のほかの音楽ももっと聴きたくて、仕事の合間や移動中にYouTubeをがんがんつけて米津玄師を聴くようになって、その闇の底から肯定してくる感じにのめりこんだ。そうしたらYouTubeったら優秀で「コレも好きじゃね?」といって勧めてくる、「天体観測」しか知らなかったBUMP OF CHICKENの祝福感に浸り、次いで「ワタリドリ」しか知らなかった [Alexandros] の重厚とポップの絶妙感にからめとられていまにいたっております。

ついでに、あいみょんもその流れで知った。ドラマ「獣になれない私たち」の主題歌もとてもよかった。

 

そうやって今年初夏くらいから、生活とともに音楽があるような毎日になって感じたのは、あっ、音楽わたし好きだったな、ということでした。

忘れていた。自分が好きだったものを。なんかこう、余暇的ないっさいを手放さないと対応できなくて、毎日に。毎日の仕事と送り迎えとごはんづくりと、ホコリやちらかりを見過ごしていることを苛まれている(ように感じる)ストレスに。

音楽を改めて聴くようになって、何なら家で仕事してるときは大声で歌うようにもなって、何者でもない、何の役割も担わないまま、ただその音楽の世界観に没入できることが精神にすごく深い滋養を与えてくれていると実感したのでした。

 

あっ。まだ、肺の余地があったんだ。こんな浅い呼吸じゃなくて、あっぷあっぷしないで、こんな深い呼吸ができたんだった。それを忘れてたよ、という感じ。

そういう無意識に手放してきてしまったことがすごく多い気がする。

 

走らないで!

あぶないよ!

ソファに立たないで!ソファから飛ばないで!

台所におもちゃ広げないで!

なんでそんなに時間かかるの?!

肘つかないで!左手!出して!

もうまた9時過ぎちゃったじゃん!

……とかとか怒鳴りまくる日常にまみれた日々から、歌い手の意志がこもった歌とたくさんの制作者の粋が極められたMVが非日常の極上の世界へ連れて行ってくれた。

前者の世界ももちろん悪くないです。そうやって子が育っていくのは手応えがあるけど、けど、息がつまる、余裕のない1年だった。来年はもう少し、自分を取り戻したい。アラフォー個人としての感受性を失わずに生きたい。

 

ついでに、そうはいってもドラマも去年あたりから取り戻したな。TVerが登場して、iPadで台所とかで見られるようになったから。でもいつも合間に見てるからな、深い滋養とまでは感じていなかった。でも来年もドラマたのしみ。

そんなこんなでー!来年はもうちょっと書けたらな。気負わず。

 

  

 

 

音声起こしが大事なのは、その人の思考回路を体得できるから。

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雪でしたねー! 喜んで飛び跳ねるタロー。え、いつの話をしているのだと? なんか明日も雪らしいですけど。

もう月末で、新年(←すでにズレ感満載)最初のブログがすごくニッチなライター業の話です。

今、たぶん職歴上で初めて、公私の私もそこそこ知っている友人に仕事で取材して、その人がしゃべった原稿を書いている。そうすると、その人の仕事のこととか思考回路とかを、取材の場で初めて会う人よりは知っているだけあって、その人の言葉が割とすらすらと文章になって出てくるのがとてもおもしろい。

人の思考は、言葉に表れる。だから、その人の言葉を正確に何回も聞くほど、思考回路に迫れると思ってる。

編集ライターの仕事を15年やって最近やっと、音声起こしがいかに大事かを実感している。えっと、作業自体じゃなくて、もちろん音声起こしの業者に出してもいいんだけど、その人がどういう言葉遣いでどういう文脈で話したかを正確に把握することが、いい原稿の第一歩なんだなという気がしている。

特に、その業界の実務家でない場合や、経験の厚い人に話を聞く場合。わたしなら、マーケティング業界でベテランマーケターに取材して、その言葉や文脈にはわたしの想像もつかないとんでもない経験とノウハウが詰まっているわけなので、それをまず忠実に起こす(知る)ことで、思考回路とともに経験やノウハウまでも体得できることにつながる。もちろん、ちょっとだけど。

出版社の社員編集者をしていたときは、月刊誌を月に50ページとか担当してて、その中で取材して自分で書くものも2-30ページあったりして、とてもとても全部音声起こしまでしていられなかった。取材時にばーっと書いた汚い手書きの(当時はPC持ち歩きという文化もなかった…!)ノートを見ながら、思い出しながら書いていた。

どれも、1時間の取材を1000字や2000字にしなくちゃいけなくて、自分が自分の浅い知識と経験で勝手に理解した言葉、その人が発した言葉とは違う言葉を原稿に使ってしまって、メールで確認原稿を送ったそばから電話がかかってきて「僕はこんな言葉を使っていない」と怒られたこともある。それはコピーライターのかただった。すごく、言葉を選んで話してくれていたのに、それを私はないがしろにしてしまって、そのことに気付いてもいなかった。

今でもあれは忘れられないなー…。

その原稿は当然、音声に戻って、書き直しました。でも、以降ももちろん仕事量は変わらないわけで、最後まで1本1本音声起こしして丁寧に、は実現できなかったと思う。

だから自分で仕事量をコントロールできる今、現場でほぼPCメモを打てたもの以外は基本すべて音声を聞き直すか業者に出すなどして、納得いく原稿を書けていることがうれしい。し、もう怒られない、という安心感もある。どんだけ小さいモチベーション…。でも、取材相手の時間と気持ちをないがしろにしていないことは、自分の仕事に積み重ねる小さな自信のひとつにつながっている。

もちろん分量には制限があるし、読み手のレベルにも合わせないといけないから、原稿はその人の言葉を全部そのまま使えるわけじゃない。そこがライターの手腕なわけだけど、その人の言葉を正確に捉えた上で、思考回路を(多少でも)体得して原稿を書けると、ときに、「そうそうこういうことを言いたかった!」といわれることがある。言語化してくれてありがとう、とまではいかないけど、そこまで先方の満足度が高いものを出せると、さらに「これを言うならもっとこういうことなんだよね」と修正が入り、先方の思考をさらに引き出したり発展させたりすることにつながる。結果、読者によりよいものを提供できるようになる。

先方が使っていない言葉を使うのは、正直リスクがある。思考を推し量れないと言葉を選べないから。そこが、「こんな言葉は使ってない!」といわれるか、「そうそうこういうことが言いたかった!」といわれるかの分かれ目だと思う。その拠り所は、思考や知識や経験をほとんど知らない、自分とかけ離れている人の場合、その人が発した言葉しかない。と、信じている。

昨年も、100本以上の原稿を書かせていただきました。今年も突っ走ります。

1歳をすぎてどんどん人間になっていく超絶興味深い生き物・ジローの話を次は書きますw

羽は一度伸ばせば、またしばらくがんばれる。

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いい飛行機がとれず、今年は年内に帰省してすでに帰ってきた。1歳児を機内でじっとさせるのたいへんすぎた( ꒪⌓꒪)

今月もまたばたばたして、最初で最後のブログが大晦日というていたらく。下書きのままだったのよー。

今年はほんとうに怒涛の1年だったけど、今月は下の子が生まれて初めて夜飲みに行き、調子に乗ってなんと3回も!行ってしまった〜〜!! うち1回は、ほぼ2年ぶりの平日の飲み会で、うれしかったことがあったので書いておく。

それは仕事関係の忘年会で、普段なら行かない(行けない)んだけど、たまたま夫の仕事が忙しくなく早く帰宅でき、なんならお迎えも行ってくれるというので、ん、じゃあ、ごめん、ついでに夕方予約してる次男の予防注射もお願い!!って、よろしくお願いしたんですよ。

考えてみれば長男次男とおして予防注射を頼んだのは今回が初。まあ少なく見積もっても一人10回以上はあるから、一回くらい担当してもらってもバチはあたらんだろう…。なんて、なんて、ラク!!!

で、その仕事関係の忘年会の立食テーブルで、たまに一緒になる素敵な女性カメラマンさんと同じテーブルになり。主催者側はわたしに子どもがいることを知ってるので、先にわたしの話が出ていたらしく、着くなりその女性に「子どもがいたなんて!いるように見えなかった!」といわれたのです。

曰く、以前仕事したママさんライターは、子どもがいることを交えて周囲に気を遣わせるような発言をしていたそうで(早く帰ってあげなきゃかわいそうで・・みたいな。知らんがなって話ですけどw)。だから、子どもがいることを全然感じさせなかったのは驚いたし、そのほうが私はいいと思う、みたいなことをいってくれた。

ふだん、生活感が出ないようにという観点で、子持ちに見えないことを意識してはいるけど、そういう指摘はちょっと新鮮だった。でもたしかに、自分も子持ちであることを決して免罪符にしないようにとはいつも思ってる。

発注元には、迷惑をかける可能性はあるし、会社や仕事によっては子持ちの人はできれば遠慮してほしいとか適してないと考える場合も当然あるので、最初に必ず伝えている。夕方以降と土日の仕事は基本難しいです、夕方から22時くらいまではメール返信もままならないときがあります、とか。

でも、それ以外の1回1回の案件のときに会う人には子どもの話は聞かれなければしない。というか私も忘れてるw

ひるがえってそのカメラマンさんともそういう話をしたことがなくて、そのほうがいいといわれてなぜ自分が嬉しかったのかをいわれて考えてみたんですよ。すると、いま書いたような、免罪符にしないようにという意識を肯定してくれた発言だったから、嬉しかったんだな、と思った。

正直、子持ちで仕事をしていくって、子どもがいなかったときより10倍は気を張っている。自分さえがんばればなんとかなるという次元にないから、つかれる。わたしのような融通が利く仕事でさえそうなんだから、世のお勤めワーママはいかほどか、と思う。

それでも、それぞれの事情をかかえて、腹をくくってやっている。毎日毎日待ったナシの子どもの相手をしながら。そんな中のほんとうに久しぶりの飲み会だったので、スパークリングワインと料理を、解放感とそのたもろもろの万感の思いで堪能したのでした。羽を伸ばすとはこういうことをいうのかと、これでまたしばらくがんばれると思った。

今年できたこと、できなかったこといろいろあるけど(それを振り返る時間も取りたかったけど;;)、今年同じように子どもと自分のやるべきいろいろなことに明け暮れたみなさんが、ちょっとでも羽を伸ばす時間がありますように・・!

Webメディア「She is」の公募コラムを書いてみた。テーマは「ははとむすめ」

先日立ち上げられた「She is」というWebメディアがあるんですけど(運営はCINRA)、そこがこれから毎月コラムを公募していくということで、創作のようなそうでないような文章を書いてみた。テーマは「ははとむすめ」。

ま、本サイトへの掲載は落ちたのですがw、ブログなどに掲載は可とのことで載せておく。作家の川上未映子さんが参加していたことで注目したサイト。今後も毎月のテーマを決めて公募するというので、また応募してみようかなー。

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Birds

娘は生まれなかった

お腹にいるのが「次男」だとわかって、わたしはほっとした。年齢もあるし、子どもは2人と思っていたから、これでわたしが娘をもつ可能性はかぎりなくゼロになった。

小さいときから、大家族に嫁いできた母が、けっして快適な状況ではないことを感じていた。わたしたちにはいつも明るく、十分に愛情をかけてくれたけど、わたしは気がついたら緩衝剤の役についていた。最初の記憶は幼稚園のころだ。別の家族の部屋で兄弟たちがテレビをみていても、わたしは行かない。呼んできて、という頼みをきく役目があるから。

母は、わたしに家事をさせたがらなかった。大家族の台所の片付けは、いくつもの鍋を入れて1時間はかかる。音がひびくと、うたたねしている母が起きるから、1枚1枚しずかに皿を洗う。時計は12時をまわろうとしている。娘として母を感じるほど、家の中の母を含めた女たちのふるまいと、それぞれがわたしだけに語る言葉は、わたしを揺さぶった。

表面的には一丁前のツラをしていても、自我も未来もまわりとの関係もすべてが昆虫のさなぎの内部のように内側でどろどろとうずまいている10代のときにわたしは、やっぱりどこか、折り合いがつかなかったのだと思う。足下で薄氷の割れる音が絶えず聴こえるような日々を抜けるには、時間がかかった。

複雑な人間関係は、わたしをおびやかす。だからさなぎを経てわたしは、いっさいの複雑さを無視する大人になった。結果、組織の中ではうまく生きていけなくて、いまはひとりで仕事をしている。それはわたしに合っている。

結婚というイベントを経ても、年に2回くらいしか顔を出さなかった実家には、子どもができた今や月1以上のペースで寄るようになった。わたしの子どもをかわいがる母や父の姿を、とってもふしぎな気持ちでみる。20代や30代だった彼らと、あやされるわたし。端からはなんの問題もないように見えて、事情も感情もこんがらがってほどけない中で大人はバランスをとっていた、その狭間にひとり子どもが落ちていったこと。この家の誰もそれに気付かなかったことを。まるでなかったかのように、30年前と同じ箱の中で、きゃっきゃとはしゃぐわたしのかわいい息子たちをながめる。

長男は男の子と女の子の差に気付きはじめて、男の子はブルー、女の子はピンク、男の子はかっこいい、女の子はかわいい、などという。そのたびにわたしは、そんなことはないよ、きみはかわいいし、かっこいい女の子もいるよと諭す。

でも、諭しながら思う。女の子だからっていう発想から自由になれないのはわたしだと。ごっこ遊びが好きで、人のやることなすことをよく見ていて、その機微を感じ取ることに長けた“女の子”。そんな娘がもしわたしにいたら、息子と同じように愛せるはずだ。永遠にわたし専用だと思って結婚した夫がその女の子にほおずりをし、目を細めて成長を喜んだら、わたしも一緒に喜べるはずだ。

それをたしかめて、そして「なんだ杞憂だったじゃないか」と笑い飛ばす術は、娘を生むしかない。まるで、ばくちだ。自分にとっても、その娘にとっても。だから「長男だ」「次男だ」とわかったときの安堵感は、ばくちを避けられた安堵感だった。同時に、しぬまで、母とわたしの関係とそのまわりにあった名前のつかない空気を、母になったわたしと娘でこたえあわせすることはなくなった。

この先も、姪っ子や友人の娘たちの成長に触れるたび、なかった未来を考えることがあるかもしれない。そのことに意味があるかもわからないけど、立ち止まりながら、毎日毎日大きくなる息子たちに目をかけていく。 

「1文字いくら?」の衝撃と、量り売りではなく価値を返しているんだという話。

今月もばたばたと過ごしています。

次男が夜、ちゃんと布団で横になって寝るようになったのはいいものの、その分「あ、この仕事は夜中できる…」という思考になってしまって立て込んでいる現状。そしてときによっては10分おきくらいに「…ふぇ、ふぇぇ、ビエェェー!!」と泣いて起きる次男

ふぇぇ、くらいで駆け寄ってとんとんするとまた寝るので、そこで完結させたいんですよ! なので仕事や家事の手を止めて駆け寄る、そんな夜中もあります。

1文字に値段はつくのか

昔の話ですけど、たまたま取材で知り合った小さい会社に、自社サイトをしっかり構築したいので文章づくりを手伝ってくれないか、と話をされたことがある。

いろいろ話して、あ、公式サイトの文章というのはコピーライティングだな、伝えたいことをごく端的な言葉に凝縮して提示する必要があるんだな、と気付かされた。自分の普段やってる記事原稿とは違う能力が必要だな、と。

たぶんできるかなと思って、最後にフィーの話になったら「で、1文字いくらでしょうか?」といわれたんですよ。これ、相手には悪気はたぶんないんだけど、鳩が豆鉄砲を食らったような顔にわたしはなったと思います。

仮に、企業理念のページに、キャッチ1本×400w程度の解説を3本立てるとすると、ざっくりわたしが原稿を引き受けているような金額ベースだと、1-2万にしかならない。でも、その言葉を紡ぎ出すためにかかる時間と労力は、記事1本書くよりもかなり多いはず。

結局、その場では、その誤解というかボタンの掛け違いをうまく説明できなかった。そして、この仕事は向こうの進行とわたしの産休が重なってしまって、わたしが引き受けることはなかった。その後どうなったかしらん。

仕事の成果は測りにくい

で、最近、1文字とはいわれなかったが同じようなことをいわれて、上記のできごとを思い出した。わたしも普段、聞かれたら、ざっくり何千字の記事でこのくらいでお引き受けしていますと答えてるけど、それは文字量しかわかりやすい尺がないからそういっているだけで、正直、適切とは思ってない。

もちろん4000w原稿と1万字原稿はかかる時間も違うけど、そもそも話の深さが違うので、下調べとか含めて必要な執筆時間とか、そもそも自分に対応できるのかということにもなってくるので、フィーというよりむしろそれらの見極めに必要なんだよな。

こういう仕事は、時間でも測りにくい。速い人ならたぶん1時間インタビューを1時間で書けるのかもしれないけど、この業界に限っては、どれだけうまい人が1時間で仕上げたインタビューよりもわたしが半日かけて仕上げるほうがたぶんいい仕上がりだと思う。し、発注側としても安く発注しても結局自分が直さないといけないなら、直しがないのは大前提で、その上で速くて安い人に頼みたいはず。

結局、文字数はあくまで目安で、それでその案件にかかる時間と労力と、なにより大事な自分のそれまでの知見を測ることはできない。その逆方向の究極が、クラウドソーシングにあるような、1文字いくらの世界なんだと思う(あれはあれでわかりやすし、需要と供給が合っているとは思う)。

結局、何を売っているのか

なので、こないだ「1文字〜」に近いことをいわれて、はっとしたのです。その人たちは、気付いてないと思うけど、丁寧なものいいをしていても、発注先を一律にしてしかみていない。そういう人たちは往々にして、この話し合いをしている1時間がフリーランスにとっていくらの単価なのか、ということもみえていない。

それをモヤモヤ考えていて、わたしは文字を量り売りしてるんじゃなくて、価値を返している(返そうとしている)んだとわかった。その価値に値段をつけて売ってるし、その価値を認めてくれる人と仕事がしたい。量り売りの文章を買いたいなら、そういう人と仕事をしてもらえれば、双方幸せだろうと思う。

ぶっちゃけ、2000wでも4000wでも、当たり前だけど総動員する知見のベースは同じだし、かかる時間もむしろ2000wのほうがぎゅっと凝縮するから大変なくらい。そこは論点ではなくて、ただ出し先のフォーマットに合わせてるだけで。

デザインにしてもイラストにしても、同じだろうなぁ。特にPRなんかはメディアパブリシティの獲得は保証できないから、難しいよな。というわけで、深夜のフリーランスあるあるを書いてみました。では仕事に戻ります。

 

 

コミュニケーションにおいて「言葉」ってどれくらい重要なんだろう。(ジロー1歳2カ月)

※この文章は約3分で読めます!

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着られなくなったジローの服をやっと整理して、友人のベビくんにお下がり。ああ、この服はタローも着た!この服も思い入れが! ←断捨離できないやつ。

子どもが布団で寝てくれるって至福。

次男ジローが満1歳になって、急にラクになった。それは、夜ちゃんとジローが布団で寝られるようになったことが大きい。いままでは本当に、抱っこ寝から布団に置こうものなら背中スイッチ即発動の子で、生まれて1カ月間こそ「ぼくって生まれたんだっけ?」みたいな感じで寝たり起きたりしてたけど、それ以降は1歳まで330日のうち300日は抱っこのままソファーにもたれて朝を迎えていたような気がする。

保育園でのお昼寝は、2.5時間もしっかり布団で寝ているらしいのに。抱っこもどんどん重くなるから、睡眠不足に加えて重力という体の負担に正直かなり限界だった。

それが1歳になったとたん、抱っこで寝たら布団にそのまま降ろして2-3時間起きずに寝るように! その時間は徐々に増え、1歳2カ月になったいまは、朝までとはいかないが5-6時間連続して寝るようにー!! 神様…。

夜の時間を使えるというのは至福である。寝オチだけがトラップだが、ジローを置いて、一人でごはんも食べられるしビールも飲める(あ、1歳を機に卒乳もしたんでいまもうアル中手前…あ、いや…)。

けどそれ以上に、つい「夜も夜中も仕事ができる…!」と思ってしまって、それが仕事を呼んでるんだかわからんがとにかく9月以降は輪をかけていそがしくなってしまった。というか、仕事を、あ、この1件はあれとあれが夜できれば引き受けられる…と思っちゃうからだな。これはもうちょっとなんとかしないといかん…。

意思疎通に言葉は必要なのか

でね。1歳ちょっとまえに、わたしのことは呼べるようになっていたジロー。といっても、「ア”ア”〜ギャアア”〜ママ〜!!」と、泣いてる最中にw いや、ちゃんとしっかりいってるって。泣いてわたしを呼んでるんだって。ちなみに泣いてないときに発せられたことはないです。え? いや、いってるって。

次に意識的に発した言葉は、絵本「いないいないばあ」のセリフ「ばあっ!」。

いないいないばあ (松谷みよ子 あかちゃんの本)

いないいないばあ (松谷みよ子 あかちゃんの本)

 

ねこやくまが、いないいないばあをしてくれるんですよ。大ベストセラー。最初に、保育園で「ばあっ!っていってます!」と聞いて、うちでも試したがもったいぶってたのでぐぬぬと思っていたのですが、いまやばあばあいっててかわいい。自分の顔でいないいない「ばあっ!」もするよ。

つぎが、「わわ(わんわん)」。これも絵本で覚えました。いまでは外で会ったワンコも「わわ」と指差す。

あとは喃語だけど、腕を突き出して人差し指を立て、それを左右に振りながら「コトコト〜、コートコトコト〜」と発声する。あれみたい、金属の棒を両手に持って歩くと地下水や鉱脈のある場所で振れるという、ダウジングみたいな仕草をする。

その「コトコト」の「コ」は、ちゃんとした「KO」の発音ではなくて、ダースベイダーの呼吸音みたいなの。

これがおもしろくって、長男タローと二人で真似して指を振りながら「コトコト〜コートコトコト〜」というと、ジローもよろこんでまたやる。指と指でツンとしてやるとなおよろこぶ。3人で、宇宙人みたいなナゾの交流をしている。

わかる言語をまったく介してないんだけど、明らかに、意思疎通をしている。これって考えてみれば言葉の通じない犬やネコとも一緒に暮らしていると同じで、仕草や鳴き声でうれしいとかイヤだとか伝えてるんだよな。

イヤなのもはっきりしてて、タローにおもちゃを取られたりすると「アッ!」と威嚇の発声みたいなのを出す。ジローなかなか我が強そう。コトコト〜。

言葉にならない気持ちを見落とさないように

意思疎通に言葉は必要か、というならそりゃ高度なコミュニケーションには必要なんだけど、ああ、少なくとも感情の共有には言葉は要らないんだよなと思わされる。笑顔とか、頭を撫でるとか、抱きしめるとか。

タローはよくしゃべるし、わたしの返しにまた深く質問してきたりするから興味深くて、ついさらに倍くらい返してしまう。いろんなことを、説明したくなる。やり取りがもうすっかり言葉に頼りがちだ。

でもこないだ、ジローをゆらゆら抱っこで寝かしつけたあと「タローも抱っこして、立っちして(わたしが)、ゆらゆらしてねんねしたい!」ときわめて具体的に要望を出されたときには、ああここまで説明させてしまって悪い、ごめんという気になった。

言葉をかけすぎて、言葉になってない気持ちを見落としているのかもしれないと反省した。言葉も大事だけど、万能じゃないし、すべてを満たせない。わたしは理屈っぽいので、たとえば夫に「いわなくてもわかってよ!」と思うことはほとんどないし(ゼロではないがw)、大人同士なら言えよと思うけど、子どもにそれを求めすぎてはいけないな。

たくさんたくさんしゃべるタローの隣りで、ひとつ、ふたつと言葉を覚えていくジロー。いくつめまで単語を拾っていけるだろうか。